催眠術師のひとりごと / 第五章

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催眠の利用方法やストレスの軽減

催眠誘導の実際例(119〜152ページ)

なぜか、仲の悪い人たち(119ページ)

カチンコさて、ここから話はガラッと変わります。

重い話だけではなく、実生活における催眠の利用法や参考例などについても、ここでは触れますね。禁煙やダイエット、ギャンブルなどを抑制するための具体的な暗示などについても紹介して行きます。

最近はテレビ番組などにも出演したせいか、私もちょっとエンターティメントな方向に傾いた感じもありますけどね。そういった内容のメールも増えました。

「谷ロさんはタレントなんですか?」といった内容です。

残念ですがそうではありません。私はタレントには向いてないと思います。どうも根性が足りない。

引田天功に憧れたくらいですからね。元々、そういった内容(ショー催眠など)に偏見もないですし嫌いではないんですが・・・。いざ自分が収録に参加してみると大変で。そんなに簡単ではないんです。

参加してわかったんですが、皆さんよくやってますね? タレントさん撮影や収録のスタッフもとても頑張っています。一つの番組を作り上げるのは大変です。

収録に参加しないとその裏にある苦労には気がつきません。

おかしな話ですが、カウンセリングを専門にしている人はショー催眠やテレビ番組で催眠を用いる人間に対して、「邪道だ!」とか「あんな内容に何の意味があるんだ?」「周囲に誤解を招く」と怒ったり否定的であったりします。

また逆に催眠をショーとして扱ったり番組でエンターティメントとして扱う人は、カウンセリングを行ったり自分で診療所を持つ人に対してかなり批判的ですね。

「催眠誘導誘導が遅い!」とか「実用的でない」とかなんとか・・・。診療所の宣伝のためにテレビに出てくるべきではない、と自著や番組内で公然と批判する人もいます。

犬猿の仲というか、お互いがお互いをなかなか認めようとはしませんね(笑)。私からいわせれば、そんなものはどっちもどっちのような気がするのですが?

お互いを否定している割には用いている方法や手順、知識の一部には重複しているとしか思えない部分があります。表現は様々ですけれどもね。それは単なる言葉遊びに過ぎません。用いている手順や基本が同じなら、携帯電話でも情報端末でもパソコンでも「導かれる結果は」似たようなものになるでしょう。

冷静に考えればわかると思いますよ。ツールが異なっても検索結果が同じ。ショーであれカウンセリングであれ、催眠を用いる相手を否定することは、そのまま自分自身の否定に繋がります。

私個人としては、あからさまな誰かのモノマネとか盗用、悪質な詐欺や洗脳行為をやっているところでなければ、多少は双方で認め合ってもいいと思っています。

私はその中間に位置しているように思います。

そういうと中途半端なイメージはありますけどね。

かなり突っ込んだ精神的な悩みのためのカウンセリングや施術も行いますし、かといってショー催眠が下手とか、まったくやらないわけでもありません。どちらにも特化している珍しいパターンです。

急速催眠法などの独自の方法を持っていたりして、番組の関係者には驚かれたりします。

好きなんですよね、そのどちらもが・・・。だからそのどちらの練習も欠かしていなかったりします。

普通はどちらかに片寄るモンなんでしょうけどね。私の場合、やはり、最初の催眠に対する関わり方が変だったからでしょうか? いきなり多重人格の人に当たりましたので。

相談者の抱えている悩みが解消して嬉しそうにその報告を聞くのも好きですし、ダイエットに成功して、自分が綺麗になったのを喜んでいる人の顔を見るのも好きです。逆に、誰かが催眠にかかっているのを見て周囲が驚いたり、ビックリする顔を見るのも好きなんですよ。

私はちょっと人が悪い部分も持っていますので、自分がただただ、善良な人間で悩みごとばかり扱っていますという顔をするのも何か偽善的に感じるのです。

様々な仕事やトラブルも経験していますし、そんな立派な人間でもありませんから(笑)。

飲みに行って馬鹿もやりますし、普通の男性と同じ部分もいっぱい持っていますよ? ですから、勘違いしないでくださいね。神になったりカリスマになったつもりなどありません。

普通の人なんですよ。真剣な悩みや苦しみにはまっすぐに向き合いますが、だからといって多少は悪戯心も持っていても構わないでしょう?

最初に書いたように元々、子供の頃に催眠に関するテレビ番組で衝撃を受けて催眠に関わるようになった部分があります。カウンセリングや悩み事の相談に関わるようになったからといって、それを認めないのは自分の原点を否定するような感じがするのです。

やはり、それではおかしいですよね? 各地で実演繰り返してきましたし。ですから、遊びは遊びとして面白いものは面白いものとして、多少は関わって行きたいと思っています。