忘却の軛(くびき) 2章-壱

湯気の出ているcoffee ロゴ付き 小説

二章 ヴァルキューレの肖像 壱

二章 ヴァルキューレの肖像

エスプレッソをひとつ頼んだ。

若い頃に仕事で宝飾品の買い付けなどをやった。イタリアではカフェに専用のエスプレッソマシンが置かれている。日本ではそういったマシンを置いていることは珍しい。

エスプレッソやカプチーノを頼んでも本格的なものが出てくることはまず無い。

殆どが名前だけというか形だけのもので大体は美味くない。少なくとも私の個人的な好みには合わない。エスプレッソは専用のコーヒー豆、焙煎ばいせんの具合によっても味は大きく変わった。

外資系だけあってか、この店のコーヒーは珍しく本格的な物を出す。香りが豊かだった。価格も安い。テラスがあってオープンカフェスタイルにもなっている。

神戸という街の印象やイメージのためか、見た目や雰囲気だけ気取っていて味は悪く、価格が高いだけという店も結構ある。地元の者は行かないが観光客で埋まっている店もある。

この場所に来るのも久しぶりだった。以前とは若干、店の内部の構造、椅子や内装が変わっている。改装でもあったのだろうか? 店員の顔触れもとっくに入れ替わっていた。

神戸市内でここよりも、もっと本格的なものを出す所も幾つかは知っていた。

(ここに来るのも久しぶりだな・・・)

今回、大切なのはコーヒーの味よりも無線LANやネットアクセスのためのコネクタだった。この店の最大のメリットはビジネスマンが多くパソコンの利用者が多いということだ。漫画喫茶やネットカフェと違って身分証明証の提示が要らないことも大きい。

掲示板での脅迫行為や違法薬物販売、個人への誹謗中傷、一時、海上保安庁や自衛隊、監督官庁からの情報漏えいなどが相次いだため、インターネットの規制は徐々に厳しくなり始めている。

ここにはスーツ姿のサラリーマンも普段着の若い学生もいる。人に紛れ込みやすい。好都合だった。開店当初のような派手な賑わいこそないが、今もそれなりに客は入っているようだ。

店全体がガラス張りなので死角は少ない。

私は一番奥の席を好んだ。

周囲が見通せるので誰かがついてきたり不審者がいたらわかる。視線を殆ど動かさずに周囲全体を見ることができた。もっとも最近はパソコン画面を見すぎて視力が落ちてきた。

以前のような動体視力がなく、年齢的な体力の衰えはどうにも隠しようがない。それが一線を離れよう、依頼を積極的に受けるのと辞めようと考えた理由にもなっている。

店の構造が特殊で中二階のようになっている。外を通る人が客席を覗きこむことはできない。一段高い構造になっているのはプライバシーに対する配慮だろう。

奥まった位置でガラスを背にして目立たない場所に座る。ここならば背後から覗きこまれたりいきなり襲われる心配が少ない。

食えない時期に様々なアルバイトや仕事をやった。中には危険を伴うものもあって、本人の意思とは関係なく騒動に巻き込まれたこともある。私にはそういったことを自然に確認する習慣が身についた。

最近はあまり外に出ず、自宅で仕事をすることが多くなった。

以前は打ち合わせや面談のために用いていたネットカフェや喫茶店も訪れることはまれになっていた。ほとぼりを冷ます、というと語弊ごへいがあるかもしれないが、自身にとってはその表現が最も当てはまるように思う。

ここ数年は活動を停止し、依頼や取材を受けなくなったことで静かに毎日を過ごすようになっていた。一時期は頻繁ひんぱんにあった出演依頼メールや相談メール、取材目的での事務所への直接連絡も、以前に比べると格段に少なくなっている。

だからこそ静かになったこの時期に、私宛に届いたこの変なメールが気になったのだ。

カフェに来る前にノートパソコンにメールをコピーし何度か眺めてみた。英文ではなく半角英数で書かれたローマ字文だ。

読みにくい文章だったが、内容を精査すると自分が多重人格者でそれを助けて欲しい、病状の詳細はリンク先にある、という文面だった。

この手のメールは時折届く。

以前に番組出演をこなしていたり、雑誌の取材を幾つか受けていた頃、その後の番組報道で多重人格が話題になった時にはかなりの数が届いた。

私が過去に自著の中で多重人格に関する記述を行ったこと、自分のサイトで多重人格に関する考察や注意事項を書いたことがあった。日本では数少ない対処経験者、多重人格の研究者や理解者であると信じた人達が社会に一定数、存在したのだろう。

ネットでそういったものに関する検索をすれば、長年、ウチのサイトが一番最初にヒットする状態が続いていた。

ブームのようなものは、精神疾患とか病名においてもある。PTSD、いわゆる心的外傷後ストレス障害が一気に報道され有名になってしまった。

中には新しい病名の意味について理解するのではなく、ただ単に興味本位であおってしまい、収拾がつかなくなっているものもある。

私の場合もご多分にれず、そのブームに被害を受けた。

若い女性が多重人格で苦しんでいてそれを治療している、との報道があった直後から興味本位のメール、「我こそが多重人格である」との申し出、マスコミとおぼしき関係者からの依頼や質問と称する執拗しつような問い合わせが相次いだ。

そういったものはいずれは沈静化する。

一過性のものであるからブームであり流行と呼ばれる。どんなにセンセーショナルな内容で一般人の興味を引こうと願っても、それは長続きはしない。希少きしょうな症例、珍しい症状というのはそんなに都合良く次々現れはしない。

実体験がなければ作り話も難しい。多くが私に情報を求めるのは、それだけ、その症状や反応に関する書籍やデータが不足していることを意味する。

マスコミがブームを継続しようと考え、どんなに派手なタイトルをつけたりセンセーショナルな内容であおっても実体験や経験を伴わない言葉は薄い。こちらとしてはしばらく静かに経過観察、つまり一方的なブームが去るのを待てば良い。

確かに世間というか社会というのはヒステリー状態にはおちいりやすい。安易にマスコミの創りだしたブームや煽りに引っかかってしまうことも事実だろう。

ただし、だからこそ不自然な形でマスメディアが火をつけた場合は沈静化も早い。そこには実態が伴わないからだ。

徐々に社会や一般人は常識的な反応を取り戻し、奇異きいな報告や特異な症例数は減少してゆく。

私宛に届く自称「多重人格者」からの相談の殆どは詐称さしょう詐病さびょう、錯覚や思い込みであり、信頼するに足りなかった。

私がそう断言できるのは、彼らには本当の多重人格者が持つべき資質、その決定的な特徴が大きく欠けていたからだ。

周囲の注目を集めたいとか目立ちたい、中には芸能人になりたいとか好きなタレントに近づきたいといった安易な発想から多重人格者に成り済ますものも数多くあった。

愉快犯とか便乗犯、家族や友人、学校からの孤立を避けたいがためにそういった成り済まし行為や演技に走ってしまうことは時折ある。

中にはあからさまな詐病もある。

有名になりたい、目立ちたいという欲求から自身のブログやSNSに症状と称するものを次々にアップする子供もいる。

まさに子供だろう。精神的に稚すぎ自分が何をやっているのかが理解できていない。

多重人格に対する考察、研究が日本で進まなくなる大きな理由の一つだろう。著名な精神科医が真っ向から多重人格を否定しているケースもある。

精神療法を専門としている著名な医者が初期の頃、多重人格を否定に回ったのは、おそらくはそういった詐病や成り済ましに当たったためだろう。

私自身にしても過去に自分自身が経験していなければ、多重人格が現実に存在するとは思わなかったに違いない。書籍やネット、誰かから聞きかじった程度の知識では、到底、理解できるものではないと考えている。

先に詐病、詐称に何度かあったならば、そちらが先入観となって多重人格という物自体を徹底的に否定したかもしれない。自称多重人格者の多数のメールを読んだ今となっては、否定に回る医師の気持ちも十二分にわかってしまう。

残念ながら世の中は善意でのみ出来上がってはいない。

医者の中にも知名度が欲しい、新しい症例を自分が先駆けたとの実績が欲しいと願う者もいる。

嘆かわしい話だが医療関係者にも学閥や派閥はあり、出世争いや知名度争いもある。

自分の手柄や出世のために珍しい症例を探し求める医者や学者もいる。学術論文やネイチャーなどへの投稿や学術発表でも嘘や詐称、誰かの研究成果の盗作は時折、混じるものだ。

自分の施設、病院の宣伝、経営のためにマスメディアでセンセーショナルな病状を喧伝する者も存在するのが実情となる。

民事訴訟において慰謝料を吊り上げるためにだけ、新しい病状や症例、それらしい病名を欲しがる者もおり、それは弁護士や法曹関係者、マスコミ関係者にすらいる。

そうなれば詐病を助長するどころの話ではない。

結果として社会には新しい病名、症状を訴える人に不信感や猜疑心さいぎしんが生まれる。

本来は患者やその病状に苦しむ人達を助けるために付けられた病名なり分類が、間違った認識、時には自分が有名になるための道具、詐病や慰謝料を吊り上げる材料として世間に認知され広がってしまうことを意味する。

更に厄介なのはそういった詐病、いわゆる「病気、症状を訴えてくる」人の中には自分自身が嘘を付いているとの自覚のない者が時折いることだ。

彼らには詐欺を働いているとか嘘を付いているとの自覚すらない。

本人に自覚がないのだから、そこには悪意も存在しない。最新の嘘発見器にかけたとしても、脳波や心拍数を計ったりまばたきの回数を数えても、全ては徒労とろうに終わる。

本人は「本当のことを言っている」つもりなのだから・・・。

自分なりに悩み、書籍やネットで調べ、時間をかけた上で「間違いないんです」と真摯しんしに訴えてくる。ネットの普及がこの手の問題を余計に複雑にしている。

家庭用の医学本に書かれていた言葉をオウム返しにしていた頃とは違う。検索する側が詳細に調べている。純粋培養に近い医療関係者や真面目な医者ならひとたまりもない。

彼等は世慣れた弁護士とかマスコミ関係者とは違う。本質的に痛みや苦しみを訴える患者を徹底的に疑うように、日本の医療制度はできていない。患者の訴えを聞き入れることが前提となっている。

これが更に多重人格に関する現場の認識をややこしくしてしまっている。

今回のメールも、おそらくはそういった手合いだろう、と私は考えていた。

多重人格を演出するために、英文でアクセスしてくるなどは普通にある。マスコミの関係者にはこの種の演出を何かを聞き出す時に使えるテクニック、有効な手段だと思い込んでる人間がいる。

無意識に自分の語学スキルを誇りたいとの感覚もあるのだろうが、彼らが英文に頼ってしまう原因はそればかりではない。

マスコミの関係者は海外の様々な文献を漁るうちに一般人には触れられない稀有けうな情報、珍しい報告例に直接触れることもある。誰かからの紹介。結果、数少ない症例を「発表用の上質な」英語の原文や学術論文で読むことになる。

その時点で疑ってかかるよりもあっさり信じることを選択してしまう。

その論文そのものが嘘であったり報酬を得るためにそれらしく整えられていることもあるが・・・。紹介者を通して自力で珍しい症例にたどり着いたと思っているため、本物だとの暗示にかかってしまう。

マスコミ関係者はノンフィクションとか潜入ルポ、極秘文書などという言葉に弱い。自身が文章をるという特殊な作業をしているがゆえに、その文章に魅入みいられることがある。

相手の専門家であるという肩書き。他には存在しないという珍しい文書。独自入手とかスクープという栄誉。そこには関係者だからこそおちいってしまう甘い罠、自らが掘った奸計かんけいが存在する。

英文ではなくカタカナを半角英数、ローマ字でというのは確かに珍しいが、私からするとこれが初回ではない。クライアントが海外で仕事で使っているパソコンに日本語がインストールされておらず、仕方なくローマ字で依頼を送ってくる、ということは実際に幾度かあった。

今なら考えられないだろう。ネット回線のスピードが上がってフォントでもダウンロードは可能だ。どんなOSを使っていても日本語環境は容易に整えられる。

今回のメールは文字変換がおかしいというだけで、内容的には特筆には値しない。むしろ私が気になったのはその送信者が他のページヘのアクセスを一切、行なっていないことだった。

私はハッカーやプログラマではないのでネット経由での逆追跡はできない。ログからはもっぱら心理的な背景を追う。通常であれば、依頼者や訪問者は私のホームページの中をしばらく彷徨さまよう。

今回のケースではそういった形跡が少なすぎるのだ。

接触を絶って久しいが、それでも番組改編の時期になると私への出演依頼メールが舞い込む。以前に出た番組のコーナーが異例の高視聴率をマークしたとかで、その頃のことを覚えている連中が時折、都合良く思い出すのだろう。

近年は出演依頼前、新番組の開始前にそういった番組の関係者やスポンサー企業が入念にホームページをチェックにくる場合が多い。出演者があからさまな危険思想を持っていたり、過去に大きなトラブルを起こしていないかはやはり気になるのだろう。

何らかの情報漏えいや詐欺販売、カルト宗教への加担が疑われる場合、後から発覚すれば番組は打ち切りになってしまう。せっかく苦労して撮影、編集してもお蔵入りとなる。

ネット、掲示板やTwitterの発達した現在、企業にはそれを調べておきたいとの防衛心理が働く。だからこそ、事前にきちんとチェックしたいとの願望や欲求がアクセスログには現れる。

最近は企業側やマスコミ側も多少はネットに慣れてきている。専用の予審会社、事前調査会社、ダミー会社を用いるようになった。アクセスログで簡単にバレないよう、より慎重になりつつある。

それでも特有のパターンが存在する。慣れている者が見ればわかるものだ。

複数の企業が急にまとめてログを残す時は、裏で新番組の企画や映画など何かが動いているケースがある。私はそれを経験で知っているため、何らかの不自然な依頼があった場合にはまずログを見直す習慣がついている。

そういった動向について、おそらく私はマスコミ関係者よりよほどくわしいだろう。サイトを開設して十六年が経過しているのだ。まだそういったものが珍しかった時代にホームページを開設し、執拗な嫌がらせやものまね、盗用には何度も晒されてきた。

ネットを中心に活動を開始して、日本のインターネットの黎明期れいめいき、ごく初期の頃から番組出演や取材などを受けてきたので、警戒心やスキルも自然に身についた。

今回の接触は、なぜか、そういった素振りすらみられない。あからさまに怪しげなメールを送りつけているのに、選択や動きに迷いがない。依頼フォーム以外の他のページを覗いてもいない。

そこが問題だった。

わざわざネットカフェまでノートパソコンを持ってのこのこ出かけてきたものの、私はメールに貼られたリンクをクリックするのにしばらく躊躇ちゅうちょした。

考えている間にすっかりぬるくなったエスプレッソを、ゆっくりと口にする。飲んでいるというよりはチビチビ舐めているようなものだ。

猫舌で熱いものが苦手なのに、このエスプレッソを飲む習慣だけは治らなかった。

宝石屋時代からの名残りのようなものだ。地獄のように熱いと表現されることもあるように、エスプレッソは本来、熱いままで飲むものだ。冷めたエスプレッソをゆっくりすする、など本場のイタリア人なら怒るだろう。

リンクをクリックすることを躊躇ためらったのはなぜか、それで面倒事に巻き込まれそうな予感がしたからだ。

たかが一通のメールに過ぎないし、それを覗く程度で何を大げさなと思うかもしれないが、私のこの種の予感、予兆はよく当たる。

(まさか、公安とか警察?)

それはさすがに考え過ぎだろう。

私個人は反社会的勢力に加担もしないし、反政府活動も行なっていない。他者との繋がりも希薄きはくで何の団体にも所属していない。

極左と呼ばれる青臭い連中とはもっとも縁遠い側だろう。私個人はああいった連中が大嫌いだった。仕事上の付き合いでどうしても避けられない時に過去数回、関わったことがある。

彼等を相手にしないのは過去の経験上、いざとなると最も信頼出来ないのが「うすっぺらい正義」を振りかざすものだったからだ。

命の危険があったり、相手が巨大な存在だとわかれば真っ先に逃げる。

約束の報酬の支払いすら言い逃れや言い訳ばかりを繰り返してしぶるだろう。

彼等の言う正義とは「自分たちのために無償奉仕むしょうほうししろ」「命を投げ出せ」という身勝手なものばかりだった。

対等な立場での関係性が築けない。学歴や肩書きばかりをひけらかす。相手に無償奉仕を求め続ける。誰かの善意は最大限に利用しようとし感謝の念はない。自分はリスクを背負おうともしないのに、義務だけを押し付けようとする正義ヅラした連中が心底嫌いだった。

最近はネットを通じた面談や活動すらまったく行なっていない。どんなに執拗しつような連中でも十年もすれば状況が一変し、こちらを追いかける理由が存在しない。

信者の奪還だっかんでトラブルになった教団や組織そのものが派閥争いで分裂していたり、反社会的行為を行って表面化、逮捕や解体に追い込まれたりしていた。

今のところ、誰かに睨まれたり、大きな何かに巻き込まれる理由が存在しない。

長年の緊張生活で警戒心が抜けなくなってしまっている。結局は現役引退と言いながら、万が一に備えてのメンタルトレーニングや身体トレーニングも欠かしてはいない。それでも新たな何かがやってきた時には緊張も警戒もする。

ちょっと苦笑いしながら、私はリンク先をクリックした。

「二章 ヴァルキューレの肖像 弐」 に続く

※この話はフィクションです。

2018年10月02日

谷口信行