相手とは上手く別れましょう!?

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畳の目を数えるのは自分のため

2017/12/12改訂
1997/03/24初稿

先人の知恵、諺(ことわざ)から学ぶ

ハートブレイク アイコン昔の人の諺(ことわざ)に、「女とは畳の目を数えるようにして別れろ!」というのがあります。

この言葉の意味はとても小さい畳の目を一つ一つ数えるようにして少しずつ相手から離れていって最終的には別れるようにしなさい、という意味です。

つまり早急に女性とは別れてはいけないという戒めの意味ですね。

いつからこの慣用句が使われるようになったかは定かではありませんが、江戸時代の末期にはすでに講談本とか落語に登場するようになっています。

人間の心は、急激な変化を当たり前のように受け止める構造に出来ていません。別れには死別も相手の心変わり等もありますが、事故や急逝を遺族や友人が受け入れがたいのは、さっきまでそこに居た人に二度と遭うことが叶わず、話をすることもできなくなったことが感情的に納得できないからです。

死別ならば時間の経過と共に少しづつ諦めもつきますが、相手が生きてピンピンしてて他のパートナーとどこかで嬉しそうに暮らしていると考えれば、フラれたほうは堪りませんよね?

ですから性急に別れようとすることを戒め、少しづつ距離を置きなさいね、と言っています。

これは実によくできた諺(ことわざ)だと思います。相手に「心の準備期間」を十分に与えなさいという意味ですね。畳の目というのは実に細かいので。そんなに一瞬で別れられるものではないですよ。

昔の人の諺(ことわざ)とか、たとえ話には学ぶべきことがたくさんあります。

この諺(ことわざ)には、焦って強引に別れを切り出すことが、結果として大きなトラブルを運んでくるとの教えが含まれているのでしょう。

時代背景と性差の変化

私はこの言葉を男性だけにではなく、現代の女性にも贈りたいですね。

なぜなら昔は「男性」が女性を捨てるものと相場は決まっていましたが、現代においては逆に「女性」が男性を見限ってしまうことも多くなったからです。

実は昔(江戸時代、明治の初期くらいまで)は「三下り半」というものがあったそうです。これは離婚するのに相手(この場合は男性から女性に対し)にたった3行程度(女性の名前と「この女と別れる」こと、そして自分の名前の手紙を渡し、実家に帰してしまった時代があったのです。

※調べてみると男性側から「再婚を許す」という一文も付け加えてあったそうです。

その一文があれば再婚は自由でになるのでとても重要でした。それをどうしても書いてもらえない場合には縁切り寺に駆け込んで2年、下働きをすれば自動的に離縁できました。

今ならばとてもじゃないけど通用しません。男尊女卑の決定番!という奴ですね。財産分与とか慰謝料とか書いてありません。要するに追い出される形になります。

相手の女性の言い分や話し合い、理由の説明などは一切、ありません。江戸っ子風に言えば「てやんでい!オイラが離縁だといったら離縁なんでい!」という訳です。

落語とか狂言、歌舞伎などでも名場面として描かれているものもあります。

本当は嫁に惚れていながら借金や何らか(仇討ち等)の理由で、他家から嫁いできた嫁が責任を負わされないようにとわざと追い出す意味もあった模様です。

幕府から許可が貰えない形での仇討ちになるとお家は取り潰し一族は皆打ち首、良くて切腹です。女子供であっても島流しという厳しい刑を受けています。

実際に赤穂浪士のお子さん、親族は長い間、島流しに遭っていました。討ち入りや仇討ちに直接参加したわけでもない。ところが江戸時代は一蓮托生ですので親族とか嫁は厳しい処分を課すことになっています。正式な嫁や子供であればそれからは逃れられません。

事前に奥さんに辛く当たって放蕩を演じる。お金も財産も持たずに三行半1枚で家から追い出された嫁は同情を集めます。すでに離縁して赤の他人です、何の情もございません、と仇討ちに参加したご本人が頑として言い張るので、温情として厳しい処分から免れられることがあったようです。

それが歌舞伎とか落語、狂言にもなって伝わっています。

そういった亭主関白? なことがまかり通っていた時代なのに、なぜか同じ時期、相反する意味で言われていた諺(ことわざ)が、先にあげた「女とは畳の目を数えるように離れるようにして別れろ!」になります。不思議に思いませんか?

環境の変化、自分自身が適応すること

畳は日本人の生活を密着していましたので慣用句にも時折、登場します。

「畳の目を読む」というのはすることがなく暇なので畳の目を読むくらいしかないという意味だそうで、「畳の目を数える」は元は女性との別れ方を指したものではなく、痛み(主に出産時)を我慢する時に使ったという説もあるそうです。

誰かと付き合い、その人に合わせて行くことは現代においても誰でも行うことがあると思います。

誰かを好きになりその人と少しでも一緒に居たいと望み、側にいる時間が徐々に長くなります。電話でのたわいのない話でもついつい話し込んでしまったり。それは幸せでとても楽しい瞬間だと思います。

そしてその延長線上に相手と一緒に暮らし始めたり、結婚に至る場合もあります。

誰かと「付き合う」ということはつまり、自分の生活に「変化」を求めることであり、また、自分自身、そして相手の心や身体、環境に刺激を与えることでもあります。

いずれ「変化」は「安定」へと変わります。お互いにいつまでも刺激を与え続け、環境を変えることは「楽しい」こともありますが、いつも気を張ってないといけませんからだんだんと疲れてきます。

環境が変わるということは、相手に合わせて自分も適応しなければならないからです。

人間は確かに変化を求め刺激を求めますが、実際には「刺激」だけでは生きて行けません。その都度に生活環境を整える必要がでてきてしまうので、精神的にも肉体的にも徐々に疲弊するんですよ。

一瞬の環境の変化や刺激は、とても気持ちいい快感を伴う場合があります。

それは旅行に行って羽を延ばすことであったり、遊びに行くことかもしれません。飲みにいってはしゃぐことであったり、中には「浮気」などと答える方もいらっしゃるかもしれません。

常日頃の日常とは違う瞬間。それは出会いであったり刺激であったり、心地よい空間であったりもします。日々追われるはずの雑事がなくなったり、仕事や身の回りの世話をしなくていい旅行とか音楽ライブとかイベントはやはり楽しいものです。

ただし、毎日が「旅行」であったりお祭りであったり、毎日「忘年会」であったり、「浮気」であったりしたら疲れるとは思いませんか?

一見、楽しそうに見えるし毎日の刺激とか変化も実現可能なように思えるのですが・・・。実際にはそう簡単には行きません。人間はどんな刺激にも「慣れる」生き物だからです。

よほどの強い刺激を与え続けない限り人間は慣れます。刺激や環境の変化にも徐々に適応しますから。「こんなものだったかな?」「思ったよりつまんないな」と思い始めるでしょう。

慣れることで強い刺激は徐々に減って行きますが、それが年齢を重ねて経験を積むということでもあり、様々なトラブルにも対処できるのです。

それはある意味、「安定」へと近づくことでもあります。

相手が怒り始める理由

「安定」した生活や環境は「刺激」がない代わりに「安心感」があります。

毎日が「面白く可笑しく」はないですが、代わりに「落ち着き」や「安らぎ」を手に入れます。環境がコロコロと変わり続けることは緊張を伴いますし、絶えず変化に対応する「心構え」が必要となるからです。

内紛や戦争が長く続いたり、毎日忙しい仕事を行ってきてその緊張感が長年に渡った場合、よほどの例外を除いて人は安定や平和を望みます。

刺激は楽しいですしスリリングですが、反面、自分が手にしたものをいつ失うかわからないといった緊張も伴うのです。レースや博打、株取引や仕事もそうですが、毎日がジェットコースターで乱高下や曲がり角が多いなら安心しないんですよ。

誰かと付き合うことで新しい刺激を受け、それにやっと適応したとします。本人は新しい刺激を求めることよりも「この人と一緒に」いることを望み、落ち着きを取り戻して行きます。

熱くドキドキとした感情は収まってきますが、代わりに傍にいると安心するようになるのです。その心の反応と同時に新しい環境を「安定」へと作り変えて自分の居場所(テリトリー)をその人の近くに作り出そうとします。

そんな折り、相手の異性からこう切り出されるのです。

「なんだか、つまんない」

「飽きちゃった・・・」

「他に好きな人ができた」

言葉や細かいニュアンスは違うと思いますが、だいたいはこのような言い方や意味になると思います。事前に前振りや予備動作があればいいですが、いきなりそう告げる人もいます。

これで相手の男性や女性はカーッと血が頭に昇ることになります。