忘却の軛(くびき) 1章-弐

壁掛け時計 ロゴ付き 小説

一章 凍てついた世界 弐

一章 凍てついた世界

「行かないで! 行かないで! お母さん!」

必死に手を延ばす。

彼女はこちらを一瞬だけみた。不思議そうな顔をしている。

こちらに何も関心を持っていないような雰囲気。見はうつろで、どことなく焦点が定まっていないようにも思える。

傍らには見たこともない男性がいる。お父さんじゃない。

その男性にしなだれかかり、腕を絡ませ、相手を見上げて媚びた笑顔を見せる。その表情はどこか淫猥いんわいでこれまで家族の誰にも見たことがないものだった。

(その人は違う)

思わず後ろから追いかけて、大声で呼びかける。

「お母さん!」

「私、私よ! 愛理あいりよ!」

「あんたなんて知らない」

彼女はうつろな目でこちらを見ながら、はっきりとそういった。

「あっちへ行って」

花音かのんのことはどうするの! お父さんだっておじいちゃんだって心配してる!」

妹の花音のことを口にした時だけ、一瞬、彼女は戸惑とまどうような反応を見せた。

「お母さん・・・」

それが愛理からすれば余計に悲しい。自分のことはまったく覚えていないのに、花音のことは覚えている。やっぱり、私さえいなくなればお母さんは帰ってくるのだろうか?

涙が止まらなくなる。

伸ばした手は届かない。まるで彼女の姿は存在しないかのように虚しく空を切る。何度、懸命に手を伸ばしても彼女の身体に触ることすら出来ない。

近い距離、ほんの少しの場所。手を伸ばして届かないはずがない。目の前に彼女は立っているのにその距離はあまりにも遠い。

彼女であって彼女ではないもの。よく似ているがまるで違うようにも思う。陽炎かげろうか蜃気楼のようだ。姿形ははっきりと見ることができるのに、直接、手で触れることができない。

肩を掴むことも手を掴むこともできない。大声も届かない。振り向かせようと、思いとどまらせようとどんなに大声を上げ、身体を掴もうとしても彼女は無視を続けている。

そのうち、花音や家族のことにも反応しなくなった。

その後、男性と親しげに手を繋ぐと笑いあいながらその姿は霧の中へと消えていった。

「お母さん!」

喘ぐように手を延ばす。届きそうで届かない手。

そこで目が覚めた。

頬が濡れている。夢を見ながら泣いてしまったようだ。

悲しい夢。ただし、これは単なる夢じゃない。

今、直面している現実だった。

ーーーー かすかなうなり声が聞こえる。

ハッとして隣を見る。瞬間に背中に冷水をぶっ掛けられたような感覚に陥る。さっきまで穏やかな寝息を立てていた筈の早希さきが、白目をいてっている。

ウーウーと小さなうめき声をたてている。早希は全身が硬直した状態のままで手を突っ張らせていた。苦しげにシーツを掴み、むしっている。

その手が偶然、俺の身体に当たったせいで目が覚めたのだった。

慌てて早希の身体を抱き起こす。

「早希!」

思わず大きな悲鳴を上げそうになる。

すでに何分が経過した? 俺はいつ寝てしまったんだ? 目を覚ましてから何秒だ? 早希が硬直状態になってから今で何分なんだ? 

(いつの間に呼吸が止まったんだ!)

早希の背中を高くして頭を下げ喉を開け気道を確保する。自分の口を早希に押し付け一気に息を吹き込もうとする。

普段ならそれだけで人工呼吸は成功していた。

(通らない!)

俺は真っ青になった。今までとは違う。みるみる、肌の色が変化してゆく。

チアノーゼ。血液中の酸素濃度が低下した時に現れる症状。絞殺こうさつされた遺体にも現れる変化。それがこれだけはっきりと現れるならもはや死の直前に迫っている。

鼻をつまんで口を大きく開け必死で息を吹き込もうとする。どうしても息が通らない。

連日の発作で硬直が酷くなりすぎ、喉が奥で貼り付いている。

咄嗟とっさに俺は早希の口を更に大きく開き、自分の人差し指を突っ込んだ。早希の舌を指で押し下げ、喉の奥を引き剥がす。

喉の奥が剥がれたことを確認してから仰向けに寝かせ、背中に枕を当てる。首が後ろに反るので気道が確保できる。

直後に口を付け息を吹き込む。あまりにも強く吹き込み過ぎると肺が破れる危険もある。構ってなどいられなかった。このままでは間に合わない。

必死で吹き込んでいるとやっと息が通る。早希の肺に空気が行き渡るのが感じられる。

早希の硬直していた身体が元に戻ってゆく。呼吸もどうやら安定してきたようだ。早希の胸元はゆるやかに上下し始める。

(助かった・・・)

手足がガタガタと震える。歯の根が合わずそれがどうしても収まらない。これがあと少し、気が付くのが遅かったら・・・。

きっと間に合わなかった。気づいたのは単なる偶然だ。

たった数分。おそらくはそれくらいの時間だっただろう。俺にはその数分間があまりにも長く感じられた。生きた心地もしないとはこのことだろうか? 

汗びっしょりになったひたいぬぐう。

6月も終わりに近い。梅雨が開けもうすぐ夏だというのにエアコンすらまともにつけられなかった。エアコンの動作音、時には旧式の室外機のガタガタと大きく響く回転音やファンの振動音だけでも、早希はたやすく発作を起こすことがあった。

出来る限り、早希がまだ起きている間に部屋を冷やし、一旦いったんは空調を止める。寝静まるまで待ってからエアコンを再始動していた。

俺はベットに腰掛けて心身の動揺を沈める。ここまで緊迫きんぱくした状況におちいったのは始めてだった。これまでで最大の発作、長時間の呼吸停止だったのではないだろうか?

やっと精神的に落ち着いてくる。ベットで寝ている早希は今のところ、小康状態を保っている。

緊張したとか驚いたどころの話ではない。熟睡している最中にいきなり氷水に放り込まれたようなものだ。事前の心の準備がなかった分だけ動揺が激しかった。

喉の奥があまりにもしっかりくっついていたこと、人工呼吸しても息が通らなかったことにパニックになった。連日のことに疲れていたとはいえ、自分がうたた寝をしてしまい発作に気がついてやれなかったことが痛恨として残った。

夜半、深夜の2時過ぎだった。初夏とはいえ朝まではまだ間がある。

今日はもう、寝ることはできない。一度、沈静化したといってもまた同じ状況が起こらないとも限らない。それを考えるならば起きたままで早希の様子を見守るべきだろう。というよりも、さっきの衝撃で恐怖心が先に立ってしまい、落ち着いて寝るどころの話ではなかった。

横で寝ている間に、同じことが起こったら?

俺は頭を抱えて考え込んでいた。なぜ、こんな状況におちいってしまったのだろう?

これはここ数週間、何度も何度も考え続けていたことだった。状況はどんどん悪くなっている。このままでは俺一人の手には負えない。

では、どうすればいい?

早希は病院に行くこと、自分の親や兄弟に相談することはどうしても嫌だと言い張っていた。

「私をキチガイ扱いするの!」

泣きながらそう激しく言い張られると、こちらとしても動くに動けない。

本人がどんなに嫌がっても強引にどこかの病院に連れて行こうとも思ったが、更に状況が悪化しもっと大きな騒動を招くのではないだろうか?

俺がもっとも恐れていたのは早希の自殺だった。

そう思っても不思議はないような不安定な状態が続いていた。感情の起伏きふくがあまりにも激しい。早希は、時にはテーブルをひっくり返して暴れるようなことも何度かあった。

(俺のやり方が悪かったんだろうか?)

それは何度も考えた。ただ、実際に効果は上がっているように感じられる。一人一人と順番に会話を交わし、やっと意思の疎通そつうを果たすことにも成功した。

何もかもが手探り。参考にしたのは書店にあった書籍たった数冊。それ以外に頼るものは何もなかった。途中で何度も迷い、悩みも考えもした。

それでも、確かに症状は一時、確実に収まったのだ。

ここまでは間違っていない。そう思い始めた矢先だった。

また早希は呼吸停止を繰り返すようになっている。前触れとなるのは常に時計と怖い女だった。一時期はそのイメージを見なくなっていた。

何がきっかけとなって、同じものを繰り返して見るようになる。

症状がぶり返した理由がまったくわからない。

一度は収まったはずの呼吸停止。

それが更に悪化してしかも今度は俺の睡眠中に起こった。対処が間に合わなかったら早希はそのまま死んだか、植物状態になったかもしれない。

助けたいと願い、何ヶ月も努力して考えてきた。気が付かずに放置していれば、朝、目を覚ますと俺の隣で死んでいる早希を発見することになっていたかもしれない。

俺の手足の震えは、その恐怖心からだった。

早希の言葉の中に何度も出てくる時計と怖い女。

あれはいったい、何なのだろう?

時計と怖い女。早希はその二つを異様に恐れた。間違いなくその二つがこの現象の根本にある。ただ、それにどうやってたどり着けばいいかがわからない。

まず時計のイメージが現れ、早希を大声で怒鳴り罵る怖い女が現れる。その後、急激に不安定になって顔面が蒼白そうはくになり呼吸が止まる。その繰り返しだ。

何かの再現。過去にあった何らかのトラブル。そこからの呼吸停止。死への予兆でありいざない。一度、それが現れるともう、俺にはどうすることもできない。

しかも、ここ数週間でそれが急速に悪化している。

どうすればいいかを考えあぐねていた。

彼女の眠るベットの横に跪き、早希のために祈る。

俺は神など信じていない。神様なんてものが何もしてくれないことなど昔から知っている。そんなものが助けてくれるなら祈りたい瞬間がこれまでにも何度もあった。

それでも、思わず何かに何かに祈りたくなる瞬間はある。

そういった症状が治るように、ではない。今日一日、せめて今夜一晩だけでも彼女が穏やかに深い眠りに包まれるように、と・・・。

彼女の周囲で彼女を脅かす大きな音が、今だけは起きないように、と・・・。

ただただ、それだけを願った。

梅雨が開け、季節は初夏に移ろうとしていた。

遠くで暴走族のバイクの爆音が聞こえている。通りに面したマンションである分だけ状況は悪い。

前の道路をそういった連中が通ればまたその大きな音で早希がショック症状に陥り、呼吸停止を起こすことは確実だった。

早希が騒音でショック症状に陥ることを恐れ、俺は2週間ほど前に部屋の模様替えをしていた。横一列につながった2LDKのマンション。真ん中の部屋にベッドを移動すれば、外からは遠くなる。多少は道路からの音も聞こえなくなるだろう。そう考えた。

頭の悪い連中の自己満足、ふざけた暴走行為のおかげで早希の眠りがさまたげられ、また苦しむのかと思うと外に飛び出して行って引きずり下ろし、殴りつけたい気分でいっぱいになった。

この狭い部屋、二人で暮らす小さな世界。その狭い世界すら俺には守る力がなかった。

無力感。男として恋人として誰かを守り、助ける力が自分に備わっていないことを恥ずかしく苦しく思い、弱さとして痛感つうかんしていた。

現時点では彼女の周囲で大きな音がしないよう、祈る程度しかできない。その無力さに腹が立った。

やっと出口が見えたかに思えた。なのに結局は逆戻りしている。というより状況は更に悪化したかのようにも思う。しかもその具体的な理由がわからず混迷こんめいしている。

いつになったらこの悪夢から脱出できるのか? いつまで続くのだろうか?

彼女の苦しみや痛みを和らげ状況を改善し、いつか着地点というか終着点、決着がつく日が来るのだろうか?

今はただ、それだけを無性に知りたかった。

「二章 ヴァルキューレの肖像 壱」 に続く

※この話はフィクションです。

2018年10月01日

谷口信行