多重人格に関する考察

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詐病や勘違い、錯覚も含まれる

2018/12/18改訂
1997/09/01初稿

時系列と背景、当時の状況

双子 メッセージカード

※初稿が書かれたのは1997年になります。

24人のビリー・ミリガン、作家であった「ダニエル・キイス」もお亡くなりになりましたので、一部、考察を追加して述べておきます。

最初に時系列を整理します。このコーナーの初稿が書かれたのは1997年です。私がこのサイトを立ち上げた直後ですね。

ダニエル・キイスが「24人のビリー・ミリガン」を書いたのが1981年になります。

私が実際に多重人格の女性と交際していたのは「阪神淡路大震災の前」です。

震災が1995年の1月ですから、交際していたのはその一年前で1993~1994年頃になりますね。私自身は宝石販売などの仕事に携わるようになったので。

その後、神戸で被災するまでは出張で飛び回っていました。

あの経験(震災と多重人格との遭遇)がなかったら。カウンセラーになろうなどとは考えませんでしたし、今も販売とか営業の仕事に勤しんでいたのではないか? と思います。

当然ですがインターネットにも興味を持たなかったでしょうし、パソコンを使えるようにもならなかったですね。印刷業だった兄は使っていましたがどちらかというとパソコンは苦手でした。

ホームページを持とうとすることもなかったのではないか? と考えます。

いわば複数の偶然が重なり合うことで。私は「催眠術師でありカウンセラー」としてこの場所にいることになります。

私は四国に住んでいましたので。大きな書店、本屋は市内に2件しかなかったです。専門書とか洋書と呼ばれるものはとても高くて。基本的には取り寄せとなっていました。

あまり人には語っていないんですけどね。バブル期に大阪とか東京などの都市で飲食店などの仕事に従事していましたから・・・。マネージメントや経営にも携わったり、お金持ちの相手もしてましたし、かなり派手な生活も経験しています。

そういった時代ですから、様々なものが入り乱れてました。嘘をつかれるとか利用されたり騙される、脅されるなどもありましたから。

土地や財産を奪われたり首を吊ったとか自殺したとか行方不明になった人もいて。

危うい経験はその頃にも多かったですね。

人間関係や仕事に疲れ果てて一時期、故郷に引きこもった時期がありました。

その頃に偶然、知り合った多重人格の傾向を持つ女性とお付き合いすることになったのです。

ダニエル・キイスが書いた「24人のビリー・ミリガン」は日本でいきなり有名になったとか大ヒットしたわけではなく。売れるまでには多少のタイムラグがあります。

また1993~1994年当時は今のようにスマホとか携帯電話、ネット検索が高度に発達した時代ではないので、多重人格という言葉とか単語は知られていませんでした。

その頃の社会的常識でいえば「二重人格」という表現は一般化していました。

もっとも、それは症例とか病状とか実際例ではなく、裏表があって人前だと態度を豹変させる人という意味で。意識を喪失するとか完全に別人に切り替わるというものではありません。

どちらかというと松田聖子のようなアイドルを。

一般人が「ぶりっこ」と罵るようなものでした(笑)。

許可は「貰った」が、表の人格ではない

物書きとか作家になるタイプには、大きく分けて二種類がいます。

1.人でなしか節操なし

2.好奇心、書きたい衝動が押さえられない

「1」は誰とは言いませんが、凄い実体験を経験するとそれをそっくりそのまま、文章とか漫画とか絵にしたがる人ですね。実在の人物とか体験談なのでリアルではあります。

ただし、それをストレートに書くなら傷つく人は出ます。

悲惨であったり凄惨な性体験や虐待、誰かを殺したり殺された犯罪の話、それをノンフィクションとして出しても作り話や仮想の話として出してもショックを受ける人は出ます。

ですから本来、ノンフィクションというのは無関係な作家とか取材者(新聞社やマスコミ)ではなく、事件やトラブルに遭遇した当人やその家族や遺族「犯人自身」に委ねられる事が多い。

それ以外の人達だと批判を浴びますし、実際に訴訟沙汰になって出版差し止めや販売禁止、賠償命令が出ている実例があるからですね。

覚悟を持って「人でなし」になるか。一般人にはわからないように脚色や改ざん、修正を入れて「架空のストーリーとして仕上げるか?」の二択となるでしょうね。

ダニエル・キイスの本は1981年に出ていますから。日本がこれからバブル景気に向かっていく最中ですね。その種の本としては珍しく「ノンフィクション」扱いとなっています。

ダニエル・キイスは本人から許可を貰ったとのことですが。私個人としては眉唾です。作中にもあったようにビリー・ミリガンご本人は必死で多重人格であったことを隠そうとしていたわけですから。

よほどの多額の金銭が入るとか、何らかの事情がない限り第三者を使って「ノンフィクションとして出す」必然性が感じられないからですね。

私が実際にそういったものに遭遇した1993年当時ならともかく。個人情報保護法などが出来て人権問題にうるさい現代では、そういった話を「ノンフィクション」として書くことは当事者でも難しいでしょう。

シリアルキラー、いわゆる殺人犯がその実体験をお金に変えようと小説を書くとやはり炎上します。加害者側からのアプローチであるなら、そこにどんな大義名分や綺麗事をくっつけても卑怯にしか見えない。

それを快く社会が受け入れることはないでしょうね。だから作家なり脚本家を挟んだ形で「事実に基づいたフィクション」に変更されます。そうしないと理解や納得が得られないから。

あまりに悪質で許しがたい犯罪なら当事者、つまり犯人や加害者であっても作品化は許されないでしょう。反省の弁を述べていて社会に貢献する内容なら「殺人犯でなければ」ギリギリ、受け入れられることはあります。

私は当事者ではありますが、被害者ではない。ある意味では第三者であり傍観者です。

確かにそのトラブルの解消に悩み苦しんだ側ではありますが、多重人格を患ったとか経験して克服した側ではないですね。むしろ自分自身の体験談ならば書きやすいのですが・・・。

当然、書くことには躊躇(ちゅうちょ)や葛藤(かっとう)が生じます。

私はどちらかというと「2」で。好奇心や書きたい衝動が押さえられないタイプ。

ですが、内容が内容なので「1」のストレートな人でなしにはなりたくなくて。このテーマではなかなか書こうとはしなかった人ですね。

一応、交際している時に許可は貰ったんですよ。

彼女を治療? していた時に「庇護」していた母親役の人格がいきなり出てきて

Dさん
母親風

書いてもいいよ。

とは確かに言いました。

ホームページとかネットのない時代です。書こうと思えば小説とか商業誌しかなかった。一緒に暮らしている頃に私が文章を書いていることは知っていましたから・・・。

母親役の彼女は当時の私の苦労とか費やしていた時間、悩みの部分も多少は理解してくれていたのではないか? と思います。

ただし、それは彼女本人のメインパーソナリティではありませんでした。その後、人格の統合に成功して形上は同一人物になったとはいえ、私が個人で判断するには重い。

すでにこちらからは連絡がとれなくなっている人です。

私がカウンセラーを始めるとかまさか、テレビ番組で催眠術師を始めるとはまったく思わなかった頃の約束です。交際していた時とは状況が大きく異なるので。

いくら貴重な体験とはいえ、出すタイミングによっては迷惑をかけかねません。

番組などから声がかかってしばらく出演したり、講演会などをしていなければもっと前に書いたと思います。

いつかは書きたいなと思ったまま、20数年間が経過したことになります。