忘却の軛(くびき) 1章-壱

二面性 ロゴ入り 小説

一章 凍てついた世界 壱

一章 凍てついた世界

( ーーーー ここは、どこ?)

早希は目が覚めると驚いた。見覚えのない部屋に全裸で一人で立っている。

足元にはぬいぐるみのようなものが転がっている。片耳の千切れたうさぎ。元は鮮やかなピンク色だったのだろうか? 何度も踏みつけられたかのように黒く薄汚れている。

遠くで聞こえる小さな音。ささやき声? それとも笑い声?

一個一個はヒソヒソとささやくような小さな音。その音が幾つも幾つも重なり合っているように聞こえる。次第にそれは勢いを増す。 

誰かが大勢、終始、自分を見つめていて何かをうわさし合っているようにも感じる。

(怖い!)

思わず膝を抱えてその場に座り込む。音が聞こえないように耳をふさぐ。

どんなに両手でしっかりと耳を塞いても、ささやき声はさざ波のように押し寄せてくる。

ひとつひとつは小さな音。なのにそれが積み重なると耐え難いほどの大きな声に聞こえる。最後には、大声で誰かが自分に向かって怒鳴りつけているようにも感じられる。

そのうち、あることに気がつく。音は外から聞こえてくるのではない。

(私の頭の中から聞こえてる!)

執拗に湧き出すように聞こえてくる。耳をふさいでも効果はない。

(あなた達がなんて言ってるのか、私にはわからない!)

(静かにして。お願いだから黙って。怖い!)

(助けて!)

乱雑に散らかった狭くて小さな部屋。中は薄暗くて見えにくい。足元にはぬいぐるみや開かれたままの絵本、積み木。少し積んだだけで残りはバラバラにくずれている。

そのどれもに、誰かが踏みつけてわざと汚したような真っ黒い足あとがベタベタとくっついている。アスファルトにこぼしたタールのような粘着質のもの。

大勢が押し入った後、その辺りを踏み散らかして片付けずそのまま放置したかのような状態。

部屋の奥に黒くて頑丈そうな四角い箱があるのがみえた。

子供がやっと寝転べるくらいの大きさ。縦に長い。鉄格子てつごうしのような頑丈そうな窓のついた小さな扉が付いている。

入り口の扉は開いている。

何かが、中からい出してくる。黒いけだもの禍々まがまがしい姿。一匹、いや二匹。奥にはもっといるかもしれない。何かが、こちらを狙ってギラギラした目を見開いている。

(あそこに、引きこまれたらどうしようもなくなる・・・)

自分が今どこにいるのか、何が起こっているのかもわからないのに、なぜかそれだけがはっきりと意識できる。どうしてもあそこには入りたくない。入ってはいけないことがわかってしまう。

わかってしまうのだ。

「助けて!」

怖さで全身が震えている。思わず大声を上げる。他には誰もいなくとも叫ばずにはいられなかった。

「助けて! 助けて!」

ケタケタケタと乾いた笑い声が響く。女の声。さざ波のようだったささやき声は明確なあざけりへと変わる。助けを求めて大声を上げた瞬間に、それは女の笑い声であっさりかき消されてしまう。

どす黒い粘着性のもの。それが箱から溢れ出てくる。一部が素早く触手のように伸びる。咄嗟とっさのことで逃げ遅れた。裸のままでむき出しだった胸を鷲掴みにされる。

もっと大きなかたまりが足元からねっとりと足首にまとわりつく。そのままゆっくりと這い上がってくる。

「何か?」が、しっかりと身体を掴んだ。逃さないためなのか箱から他にも何本もが次々に飛び出し両手両足にも巻き付く。そのまま黒い箱へとズルズルと強引に引きずってゆく。

必死で抵抗するが、い出してきた「何か?」の力は強い。

(助けて!)

もう声すら出すことができない。黒い影はすでに全身に取り付き、ネバネバと口元までを大きくおおっている。しっかり閉じていた筈の口を割って早希の喉の奥まで強引に入り込んでくる。

(苦しい! 助けて! 助けて!)

呼吸が止まる。息ができない。

どんなに必死で暴れても巻き付いた黒い影は緩めようとはしない。

身体が痙攣けいれんし、苦しんだまま意識が遠のいてゆく。酸素を求めて喉をきむしり、影を離そうとするが抵抗はむなしい。粘着質の黒い液体を引き剥がすことができない。

ささやかな抵抗で表面にわずかな傷を付けただけだ。

いきなり、手足から力が抜けた。目からうつろになり瞳からは光が遠のいてゆく。

やがては身体全体をどす黒いものがおおい尽くす。黒いものは力の抜けた身体を引きずり、嬉しそうに笑いながら自分の巣へと戻ってゆく。

すべては闇の中へ。何もかもが入るはずのない小さな箱の中へとズルズルと次第に飲み込まれてゆく。

すべてが納まり扉が閉まる。箱についていた鍵がガチャリ! と大きな音を立てて締まった。

もう逃げられない。

けたたましかった女の笑い声は、ようやく聞こえなくなった。

銀メッキの金属の縁が歪み錆びついてしまった丸時計が、コンクリートの建物の壁際に転がっている。

小学校の校舎、夕暮れに染まる校庭で下校時間になると帰宅を知らせるチャイムが鳴る。逢魔おうまが時。鬼や魔と出会う茜色あかねいろの世界。暗闇がもうすぐそこまでやって来ている。

見上げた校舎の壁にかかっていた丸い大きな時計。

その時計がなぜか、いびつな形に潰れ校舎の壁にもたれかかって地面に落ちているのだ。

ひと目で壊れているとわかる。落っこちた後に雨に打たれたのだろうか? 錆びているばかりではなくガラスの内側に無数の水滴が付いている。

表面のガラスは割れ、針も大きくゆがんで止まっている。

なぜか気になり、俺はその大きな丸時計を覗き込もうとした。

その途端、壊れている筈の時計が大きな音を立て動き始めた。

ガチャガチャと何かがこすれ合う。きしみながらもゆっくりと動き出す歯車の音。

けたたましいベルの音。何かが近づいてくるような予感。俺の背筋には脂汗が流れる。

子供の頃、スピーカーから響いた帰宅を知らせる穏やかなチャイムの音や放送部の同級生のアナウンスなどとはまるで違う。

(警告音? )

直後に、ドーン! ドーン!と、何かが壊れるような巨大な衝撃音。 

断末魔のような女の叫び声。これは悲鳴? 泣き声? どちらとも受けとれる。

何かを訴え、助けを求める声? 正確にはわからない。わかるのは誰かが必死で叫んでいる、ということだけだ。

(助けて? 助けて、と言ってるのか?)

発音がしっかりとは聞き取れず、おぼろげにしか意味は理解できない。

悲鳴のような声で助けを求めているように感じるのに、その声はなぜか明瞭めいりょうではなく、俺への直接的な訴えや要求とは微妙にズレた感覚がある。

もどかしさを覚える。近づいていいのか、近づいてはいけないのかがはっきりしない。相手が何を求めているか? が、こちらからは判断できないからだ。

(これに近づくと危険だ!)

俺の本能的な直感は、そう告げている。

危険なことなどわかっている。ただ、それでもなぜか、俺はそこに向かいたい。

どうしてもそこに行かなければならないのだ。

なのに金縛りにあったかのように身体が動かない。重たい水の中。まるでそんな感じだ。

スローモーションで届かぬ誰かに近づこうと焦り、一歩でも前に進もうと焦っている。俺の身体を縛り付けている何か? 重たい重圧、何らかの大きな抵抗。柔らかな水かゼラチンのようなねっとりとした抵抗があって、俺の身体の周囲をみっしりとおおっている。

動きを封じられている。それでも必死で近付こう、何かを掴もうと俺は焦っていた。

俺にとっての「何か?」とても大切なものがそこにあったのだ。

自分でもはっきりとはわからない「何か?」のために懸命に手を伸ばす。

「なぜ、動かない! 動けないんだ!」

あとほんの少し。指先が微かに、誰かに触れて何かを掴めそうな感覚がする。あと数センチ。いや、数ミリのようにも思う。

たったそれだけのことに永劫えいごうの時をかけて足掻あがき、固定されているような気がする。

( ーーーー なぜ、今頃になってこんな夢を?)

ふっと目が覚めた。

起きてみると汗びっしょりになっていた。

背中から尻にかけて絞れるのではないか? と思うほど汗で濡れている。この肌寒い時期にこれほどの汗をくのは珍しい。

精神的に不安定になっているのだろうか? 

一時、頻繁ひんぱんにこの手の夢にうなされたことがあった。

古い記憶。記憶というよりも追憶ついおくと言ってもいいだろう。甘さと苦さの入り混じった若い頃の経験。悪夢でうなされた日々がまるで昨日のことのように鮮明せんめいに頭の中をよぎる。

それももう十七、八年も前の話だ。

おそらく、この夢は吉兆ではなく凶兆。何らかのトラブルの前触れ。

目が覚めた瞬間、私は強い不安に襲われた。

こういった予兆というか悪夢? を見た直後に何らかの不幸やトラブルが起き、後始末というか対処に追われたことが過去に何度かあったからだ。

迷信とか霊感などではなく予兆のようなもの。

女の大きな叫び声。誰かが必死で助けを求めるかのような感覚。あの声の主が何を訴えているのかはわからない。これは今までの夢でも一度も出てきていない。一体何ごとだろう?

単なる夢だ。できればそう願いたい。何らかの予知や警告。それでも万が一ということもある。杞憂きゆうであればそれに越したことはないが警戒や注意はやはり必要だろう。

明け方が近い。卒業式のシーズンで桜がほころび始める季節だ。ただ、それでも空気は肌寒く、布団の外に出るにはまだ早い時間だった。

タオルで汗を拭って下着を着替える。

私は暖房代わりに、パソコンのメインスイッチを押した。業務用、ヒューレット・パッカードのワークステーション。家庭用にはまったく似つかわしくない。新品当時には一台で100万円以上もした。

FB-DIMMというメモリを積める最大にまで増設してある。驚くほど電力を消費する代物。発熱が凄いので冬場には温風ヒーターか、というくらい部屋が暖かくなる。

起きぬけに高性能の業務用のパソコンを暖房代わりに使っているのは私くらいのものか? と考えて少々、苦笑いする。しばらく動画編集などの重い処理をしなくなったので買い替えはしていない。

購入時には超高級品であり高機能だったが、今ではもっと高性能で低消費電力のパソコンやCPUがいくらでも出てきている。中古で売ろうと思ったが、オークションでは笑うくらいの安値になっていたので辞めた。

パソコンが起動すると自動的にメールの取得、巡回を始める。

明け方に届くのはいつもの定番のメールが多い。ショッピングサイトから送られる様々な販促メール。いわゆるジャンクメールやおすすめ商品の一覧。自分で契約しているレンタルサーバーからのウィルスチェックの連絡。

別段、代わりえもしない。

照明もつけていない薄暗い部屋の中でパソコンだけを起動、30インチ液晶モニタの画面をのぞき込んでいると、ちょっと気になるメールが一通届いていた。

「 ーーー TASUKETE KUDASAI ーーー 」

これは、助けてください、と読むのだろうか?

私の運営しているサイトのフォームメールより送られている。

(嫌な予感がしたのは、もしかしてこれか?)

メールの文面は全て、半角英数で描かれている。なのに内容は日本語だ。極めて読みにくい本文。面倒ながら書かれている単語、幾つかを読み解いてみると、多重人格についての記述のようだ。

ただ、文面がわざわざカタカナ入力、しかも半角英数で書かれている。

テキストエンコーディングによる文字化けを最初に疑った。

エンコーディングによるエラーならばタイトルがおかしい。文字化けなら全文が読めなくなるはずだ。本文だけにはならない。フォームメールを自分で設置して以来、一度もそんなことは起こっていない。

パソコン本体の文字変換が停止しているならば話の筋は通る。それでも普通は文字変換を復旧してから送ってくる。今回のように読みにくい英文風カタカナ文字を使って送りつけてくる例は稀だろう。

私のサイトはフリーのブログツールであるWordPressわーどぷれすを使用しているため、ジャンクメールを直接、送り込むこともできない。

巡回ロボット、スクリプトによる荒らしを防止するため、フォームの方はチャプター画像を選択しない限り送信は出来ないシステムになっている。パソコンやプログラムで自動送信は無理で、人が自分の目で見て表示されるアルファベットや写真をクリックして入力する必要が生じる。

つまり、この送信者は私のサイトにたどり着き、私のブログの送信フォームを呼び出してチャプターのアルファベットを入れ、わざわざ手入力で「カタカナ入力、半角英数を」使って文字を打ち、メールを送りつけたことになる。

それを考え合わせれば、かなり手が込んでいる。単なる悪戯いたずらだとしたらご苦労さまなことだ。

私は複数のメールアドレスを使い分けていた。

買い物専用に別のメールアドレスを取得しているのは、いざとなればそれごと捨ててしまえるからだ。捨てアドとも言う。定期的にそういった捨てアドは使い捨てて変えてしまうので、ジャンクメールはかなり減っていた。

普段は気にもかけない一通のへんてこなメール。本来なら迷惑メールやジャンクメールに自動的に振り分けるべきものだろう。読む必要もない。

ただ、その妙に手の込んだ部分が引っかかった。

このメールを受け取る直前に見た悪い夢、壊れた丸時計と女の悲鳴も気になった。

それは単なる予兆であり勘に過ぎない。そういった経験がないものからすれば笑い話だろう。誰かに話せばアイツはとうとう頭がおかしくなったと言われかねない。

私は過去に危ない経験をしている。カルト系や詐欺集団、催眠団体を名乗る連中から付け狙われたり、事故や事件、大きな災害に見舞われたことがある。

そういったものに遭遇する直前、予知夢に近い内容を何度か見たことがある。

私は占い師ではないし霊媒師でもない。ただ、そのまま放置すれば死ぬかもしれない、という大きなトラブルの直前にそういった夢をみたことがあった。笑いたい者には笑わせておけばいい。実際にそれで助かったことがあるからこそ、そういった予知や予感、自身の「直感」は信じることにしている。

精神医学の発祥、祖と言われるフロイトは夢判断を大事にしていた。無意識という一般人から誤解を招きやすい言葉を作った張本人だ。

そこから派生したユングは人間の無意識はフロイという宇宙意識と繋がっており、常に意識の外から改革やメッセージを受け取り続けているとも説いた。

もちろん、私はそんなことを鵜呑うのみにしているわけではない。

念のため自分のサイトのサーバーの管理者画面に飛んで、アクセスポイントと接続時間をチェックしてみる。一般人には馴染みがないだろうが実に様々な情報が得られる。

結果は私の運営するサイトでのアドレスの直打ち。しかも短時間でフォームメールのみ閲覧している。他のページは見ていない。サーチエンジン等の検索結果からの接続では無い。ここ数ヶ月で同一のIPによるアクセス記録、履歴無し。

(これは流石におかしいな?)

人間は常に迷う生き物だ。ネットでは相手の表情は読めない。よほどの粗忽者そこつものでもない限りいきなり、会ったこともない第三者に依頼メールを送りつける者はいない。

相手の言い分や宣伝文句、写真が一方的に書き連なっているのがネットであり、掲示板でありサイトやホームページになる。

一昔前のネットの黎明期れいめいきならともかく、今の御時世で文面をそのまま素直に受け入れるほうが珍しい。

そこにはあからさまな嘘も混ざってくる。ネットや掲示板では出会い系サイトやカルト宗教の執拗な勧誘、振り込め詐欺、ワンクリック詐欺なども横行している。

まったく警戒しない者のほうが珍しい。

だからこそ訪問者のログにはその迷いが、実際の行動として記録される。

あちこちをさんざん読み、最後の最後にフォームメールとなる。それがもっとも多い行動パターンだ。相手の人となりとか性格、方針を知りたいと願う気持ちがそういった確認作業へと繋がる。

それをしないのは時間がなく上司から「役に立ちそうな奴を安く今すぐ連れてこい!」と迫られる番組のアシスタントディレクターくらいのものだ。

通常は迷った末にしかこういった怪しげなサイトに依頼にはやってこない。まして内容を読み込みもせず直接アポイントを取ろうとは思わない。

今回はその迷いに相当するログ、アクセス記録が存在していていない。

送られた文面に、おかしな英文とリンクが貼られている。

そこに「WATASINO TAJYUJINNKAKUNO SYOUSAI」と書かれている。

(私の多重人格の詳細? 正体?)

単なるローマ字だった。そのわかりにくい文面を日本文に直すだけで少々、イライラした。

詳細を知りたければここをクリックしろという趣旨のカタカナ半角英数なのだろうか? その文章を読むには読んだが、私はそのリンクを踏まなかった。

自宅からそれを踏めばアクセスログが残る。

私が自宅から何時に、どのプロバイダを使ってそこに接続しているかを知られることになってしまう。その程度の情報では意味がないように思うかもしれないが、実際にはその記録から生活習慣や行動パターン、自宅に今いるかどうか? が判断できる。

何時に起きたのか、いつメールを読んだのか。どこのプロバイダと契約していて何インチのディスプレイを使っているのか。携帯電話はスマホなのかガラケーなのか。

一般的には大したことではないが、相手が特定の意図を持ってメールを送りつけている場合、意味は違ってくる。うっかりリンクを踏んでしまうと住んでいる場所までが大まかにはわかる。

IP検索でそういった細やかなサービス、接続場所やメールの発信場所を特定してくれるものの売り込み、WordPressと連携したシステムを売りつける業者から案内も届いている。

カルト宗教や詐欺集団とやりあった経験のある私は、ある種の慎重さを身に着けていた。以前にあった執拗しつような攻撃に辟易へきえきしてアクセスには極力、気をつけるようになった。

まして今回は外部から検索して情報をさかのぼるのではない。相手から一方的に送りつけられたメールに貼られていたアドレスなので、注意するのは当然になる。

そのアドレスを一人にしか送っていない場合、そこには私しかアクセスできない。それをうっかりクリックし、アクセスした瞬間に私が来たと相手に伝わる。それを待ち構えている可能性もある。

プロキシサーバーなどを経由して、自宅からアクセスすることも考えた。が、万が一ということもあるので、自宅での接続環境は知られない方が良い。何より、今の接続プロバイダが意外と快適なのだ。

万が一の場合には自宅の環境、プロバイダの変更を余儀なくされることになる。変更は別に構わないのだが、そのために数週間とか一ヶ月とか待たされることもある。

仕事、プライベート共にネット依存率の高い私は一定期間ネットに繋がらないことのほうが問題だった。変更が完了するまでの間、メールの巡回や回収、ブログの更新すらできない。

(仕方ない。明日、どこかのネットカフェでも行ってみるか)

手間がかかるし面倒ではあった。が、このメールが妙に気になった。

深い理由などない。単なる勘にすぎない。

幸い、近くに外資系大手飲料メーカーが営むカフェテリアがある。正直、少々おしゃれ過ぎて私の好みではない。もっとも外観はどうでもよかった。

各席にLANコネクタが設置されている。そこならば自宅のプロバイダと接続環境が同じになるので好都合になる。無線Wi-Fiではなく有線LANが未だにあるカフェは珍しい。

以前にそこから自分のサイトにアクセスしてログを解析している。カフェに行って自分で自分のサイトに接続する。繋いだ時間のログを自宅に帰ってから確認する。

すると偶然ながら自宅とまったく同じプロバイダだった。

そこにノートパソコンを持ち込めばいい。自宅によく似た環境になるので同じプロキシサーバーをそのまま使えたり、メールを送った際にアドレスを偽装するのも容易だったりする。

よく似ているがほんの少し異なる、という環境がもっとも防御には向いている。

人間には思い込みや錯誤さくごがあり、それは理系の典型、プログラマやハッカーといえ逆らえないものだ。事実の中にほんの少しの嘘を混ぜる。それが効果的なやり方だ。

普通の人なら自宅か勤務先でメールをチェックする。開く時に迷ったり躊躇ちゅうちょはしない。

私のように自宅で仕事をしている場合には、わざわざ出先からアクセスする物好きは少ない。面倒なので自宅で受け取ってそのまま開いてしまう。

その当たり前な行動でアクセスポイントが割れることになる。

自分がそういった行動をとる者は相手もそうすると無意識に思い込む。それが先入観として働く。

似たような環境、つまり同じプロバイダのカフェからチェックする。そこは自宅からも近い。変動IPアドレスなら時にはカフェと同一になるし似たり寄ったりなものとなってくる。するとそっちが私の自宅だと錯覚するので、せっせとそちらにアクセスしたり周囲を監視することになる。

カフェにパソコンを持って来る他の客が、自分のターゲットだと錯覚してくれるならありがたい。

そういった効果も考えて自宅と同一のプロバイダを使用しているネットカフェやホットスポットを複数、調べてあった。

おそらく、今回のケースではそこまでこだわる必要はない。アクセスログを確認した限りでは携帯電話、画面サイズとOSからiPhoneあいふぉんで確定だろう。ただし、何事にも用心しすぎて損になるということはない。特におかしな内容が送られて来た時には警戒が必要だった。

もう一眠りしてから出かけよう、と思いパソコンのスイッチを切った。私の部屋は二重窓にしてある。数年前に壁にも床にも天井にまでがっちり防音材と吸音材を敷き詰め対策をした。

元は仕事のため、脱洗脳の依頼を受けたためだった。

遮光カーテンを引いてあり日中でも光は差さない。液晶画面を切ってしまえば部屋は暗くなる。外を通る車の音も殆どといっていいくらい部屋の中には聞こえない。

せめて昼くらいまではゆっくり寝たい。前日の夜は久しぶりにブログの更新をしていて長時間、文章を打ち続けた後だった。このまま起きるのは正直、辛い。

壊れた時計、大きな音と自分では近づけない何か? 以前はこの繰り返しに幾度となく苦しめられた。

(今頃になって、またあの時計の夢を見たり昔を思い出すなんて・・・)

皮肉なものだ。

依頼の現場から身をを引き、今後はそういったものには関わらないようにしようと決めたこの時期に、そういった夢を見たり妙なメールを受け取るというのも、何か象徴的な感じはした。

目を閉じる。

昔のように同じ夢に繰り返し、うなされて飛び起きないないことを祈りながら私は静かに眠りに落ちた。

「一章 凍てついた世界 弐」 に続く

※この話はフィクションです。

2018年10月01日

谷口信行