本当に弱者の救済を行うなら認めますよ
ですから結果としてお金を持っている人ばかりを勧誘し洗脳しようとするのです。
ゲシュタルト崩壊などの手法は、そういった目的に近付くためにもっとも効率がいいのでしょうね。
私はどんな団体であれ、病人や子供また弱い立場にある人を救うために活動を行い、がんばっている所ならば認めたいと思います。
自分達の組織を大きくするためにのみお金を集め、強引な勧誘を行い、周囲に何かを押し付けるならばそれはただの迷惑行為です。宗教ですらありません。
基本になっている考えが「自分達(の集団)さえよければ」何をやってもいいでは話にもなりません。
そういう連中は自分たちの思い通りにならないと他人を迫害したり脅迫するようになってしまいますから。傲慢さと危険性を併せ持つことになります。
自分達の考えや思想を貫くことこそが目的で、その目的の過程には何を犠牲にしても構わない、といった傲慢さを滲ませるならばカルトです。
そういった主張が社会に受け入れられることなどあり得ないでしょう。
金儲けのためだけになりふり構わない、というのも一つの生き方でしょう。
一時期はセールスや販売、接客業で実績を残したこともありますから。私はその考えを否定するつもりはありません。ただしそれならば人々の救済や悩み事の解消、救いを看板にしてはならない。
愛だの社会正義、社会平和だなどをもっともらしく説くのはルール違反だと思いますよ。
私はそのようなことを他人に押し付ける人や、そのような「異常者」を教祖として崇めたり妄信している人達は大嫌いです。そこに愛など存在しません。
ごう慢で自己中心的な思い込みが存在するだけでしょう。
殆どは社会正義でも弱者救済でもなく、自分たちが誰かから金を奪って裕福に暮らそうとか遊び歩こう、異性を支配下に置こうとするだけの「詐欺」です。
おかしな教会とか集団に献金する暇があるなら、我が子や年老いた両親に服の一枚でも買いなさいって。
そのほうがよほど愛がある。
私は何かを拝むより自分で努力します。崇めるよりも働きます。自分の頭で考え自分の手足を使って「何か?」をします。それだけの能力を人は最初から与えられているのですから・・・。
言葉は悪いですけどね。大勢を悲しませたりお年寄りや子供達、障害者や社会的な弱者を食い物にする団体、多くが傷付く教義や思想など
「糞喰らえ!」
と思っています。
どんな立派な建物だろうと、それがどんな大きな団体でどれだけ信者が在ろうとも、私からすればそこには何の意味も持ちません。
神だろうと悪魔だろうと住むのは建物の中ではなく「人の心の中」です。彼らの言うどんな素晴らしい教義や建物、団体の大きさも表面だけを取り繕ったものです。
それは偽善者や詐欺師が自分をもっともらしく見せるために着飾った「ただのガラクタ」です。
励ましが必要になってしまう瞬間
人間は弱い生き物です。
先にも少し触れましたが、人間は集団でしか生活が出来ません。群れの中にあってこそ自分の個性を発揮できます。ですが集団で生活していれば様々なことが起こってきます。
そこには他人との生活や触れあいも含んでいますから楽しいことばかりではなく、苦痛やトラブルも抱え込んでしまうことはあるでしょう。
望むとか望まざるは関係なく、人が集まれば齟齬(そご)や行き違い、嫌なことも増えるものです。
集団での生活があれば、当然、そこには勝ち負けが存在します。
群れのリーダーに立つ者と従う者とに選別されることもある。
先に、騙されない人は「複数の人間の意見も取り入れて誰かに相談する姿勢を持つこと」その上で「自分が納得しない商品や情報は、はっきりと断われるだけの勇気を持っている人」と書きましたが、それはそのまま、リーダーとしての資質にも含まれます。
常に何かに勝ち続けることは至難の業であり、自分が「今は」勝者であろうとも、そこには常に「負けるかもしれない」といった恐怖が付きまといます。
真面目な人であればあるほどプレッシャーはあります。懸命に「何か?」に走り続けている人だからこそ「自分が失敗したらどうしよう?」と考える瞬間があるんですよ。
それがまったくないという人はおかしな人です。
人間であるならどこかに不安感はある。その「当然の感情」をどこかに置き忘れてしまった人は決して頭角は現さないでしょう。自分では実力があると思っていますが実際には違います。
ただの自惚れです。
必ず、どこかで転びますよ。
何かの失敗やトラブルは生活には付き物です。不安感があるからこそ努力も重ねるし、専門家や自分の周辺から話も聞きます。様々なアドバイスを聞くことはできますし、先輩や後輩、仲間だっている。
それでも決断は本人が行うしかない。人間が集団で生活する動物である限り、全てを丸く納めうまく行うことは不可能なので、どこかで自分が決断する勇気が必要です。
ですから問題は生じます。人が複数で暮らす限り、それぞれに思惑もありますし環境や立場も違う。どんなに和気あいあいと仲良くやろうと考えたってぶつかり合いも生じるのです。
実生活で何らかの大きなトラブルが生じた場合、精神的に影響があります。
どんなにタフで強い性格の人でも辛かったり苦しかったりがある。ですからそこに
わかるよ、大変だったね。
といった誰かのねぎらいや励ましの言葉が必要になる瞬間があります。
心のバランスをとるために他者の手を煩らわせる必要も出てくるのです。通常、そういった温かい言葉や励ましは、家族や友人、恋人などが投げかけるべき言葉でしょうね。
ところが、そういった関係に恵まれず独りきりで無理を重ねていたり、家庭や職場、学校に自分の居場所がないと感じていたり、たまたま忙しくて誰もいないタイミングがあったりします。
たまたま何かの会合や集会に参加していた場合、労い(ねぎらい)の言葉を第三者から投げかけられることで、簡単に取り込まれてしまうケースがあります。
取り込まれてしまうタイミング
著名人やタレントさん、事業で成功した人の中にはこういった方法で取り込まれるケースがかなりあります。
成功していたり、特殊な仕事はしているが故に彼らは孤独なんですよ。
こういった労い(ねぎらい)の言葉は両親や友人、家族や恋人、いわゆる「近親者」が行ってこそ意味があります。それ以外の人の言葉はおまけなんですよ(笑)。本来なら効きません。
ですが、たまたま周囲が忙しいとか他の何かに気を取られたり、何らかの理由で近親者に近付けない状況にあり「孤独感」を対象者が抱えている場合、他人が行っても高い効果があります。
ゲシュタルト崩壊が頑固者で事業の成功者に効くといいましたが、肯定型(ねぎらいや慰め)は「素直で子供っぽい」部分を持つ人、その時にたまたま孤独感や寂しさを抱えている人には極めて有効な方法です。
わかり易く例えるならば恋愛に失敗した直後、家に一人でいるのは嫌ですよね?
しばらく泣いたり落ち込んだ後、出かけたくなったとします。
どこかのバーとか合コンなどに行って、普段はまったく好きでもないタイプの相手に
わかるよ。僕にも経験がある。大変だったね。
などと言われると相手をいい人だと思い込んでしまい、何となくつき合う事になってしまうような物です。
失恋の衝撃が激しかったり、大恋愛の後であれば尚更、そう思い込み易いでしょう?
この手法は幼少期に親からの愛情を受け取るのに失敗し
俺は孤独だ・・・。
私は寂しいの・・・。
などが口癖で、他人に対し理解と愛情を求める人にはとても効果があります。
ただし、この方法を用いる場合タイミングを見計らうのが難しいんですよ。
愛情に餓えている人は「愛情を求めているのに」他人を疑いがちです。簡単には信用しないんですよ。
ですから心の扉はなかなか簡単に開きません。
良くて本当に親しい仲間や恋人、何年も前から付き合いのある人達です。外の「誰か?」つまり第三者には容易に心を許さないのが特徴なんです。
本人にすれば親や近親者、つまり「自分を理解して欲しいと願う者」からの温かい励ましの言葉を待っていただけなので、「誰でもいいから慰めて欲しい」のとは微妙に異なります。
「僕に同情をして欲しい」のではなく親しい家族や仲間に「僕を理解して欲しい」のであって本来は第三者の働きかけでは意味がないのです。
事業で成功している人は「能力が高い」ことが特徴です。だからこそ地位や名声、財産を手にしている訳ですね。ですから容易には心を許さない。
それが習慣化しています。
そういう人を取り込むには、一種の心の隙間、間隙(かんげき)が必要です。隙間が開いてない人の場合、どんな言葉も耳に入りません。
一種の「おためごかし」や「いつものお世辞」追従にしか聞こえませんし、聞いた所で快くはないですから・・・。
ただ「たまたま大失恋」していたり、仕事で大きな失敗をしたとか、肉親や家族を亡くしたなどが重なった時だけ、入り口の鍵が壊れて隙間が開いてしまうことがあります。
困るのはこういったケースでは、洗脳者が一旦対象者の懐に入り込んでしまうと他からの言葉に一切、耳を貸さなくなる例が多いということですね。
自分が一番励まして欲しかった時に近親者からは応援が無く、「俺はあいつらに助けてもらえなかった」というマイナスの思いがある分だけ、その思いは根深いのです。
実際には違うんですけどね(笑)
私のような専門でやってる者からみれば、その人(素晴らしいアドバイスをくれたと対象者が思っている人)は「たまたま」そのタイミングでその場に居たに過ぎません。
ですが、その「アドバイス」?を受けた人にとっては、そういった軽い存在ではなくなるのです。
そのうち、
この人のおかげでここまでこられたんだ!
と言い始めます。何かがちょっと上手く行き始めると
全ては◯◯先生のおかげです!
と話したりもします。
私も職業柄、時折そういったことを言われることがあって苦笑いします。
一般の方には恋愛に例えるとよくわかると思いますが「この人がいなければ、私はダメになる」「この人がいたから楽になれた」などと熱く語る女性や男性は世間に結構いますよね(笑)。
特にご本人がその恋愛相手にハマっている時とか、のぼせ上がってている間は周囲のとりなしとか忠告にも聞く耳をまったく持ちません。
どう考えても不幸になる、他からみて不自然で異様な関係だったり不倫だったり、ただ単に都合のいい女、便利な男扱いされていても当のご本人は気がつきません。
むしろ止めに入る人達を邪魔に思いますし、意図を邪推します。
心配して話しかけると
この人(達)は私を羨んでいるんだ!
とか、
彼を盗ろうとしてる!
とか、
この人は何か魂胆があるに違いない!
などとおっしゃる例も社会には数多くあります。
仕事においても恋愛においても実際には「その人のおかげ」は無いんですよ。
本来はそうではなく、だいたいはその人と出会ったタイミングやその時の心の持ち様で「この人のおかげだ」と勝手に思い込んでいるに過ぎません。
人間には確かに「そう感じてしまう」一瞬があるのです。
その「たまたま」与えられた言葉や対応が本人にすれば嬉しかったため、そこにしがみついてしまうのですね。感情が高ぶってしまい冷静に考えられなくなるのです。
出会いや「恋愛」対人関係は偶然も多い
結局は別れたり付き合いが途切れた後では笑ってしまうことが多いんですけどね(笑)。
私はなんであの人にあんなに夢中だったんだろ?
と・・・。
ところがその時は本気です。「この人がいなくては私はダメだったんだ」と真摯に思い込んでしまいます。
失ったものが大きかったり、精神的なショックが強かった時に現れた相手は。王子様だったり仏様だったり、理想の女性象、素晴らしい友人や知人、恩人で「神様」にすり替わりやすいので。
私はその全てがダメだとは私は思っていません。
恋愛も含めて人付き合いの多くは誤解と錯覚、思い込みと偶然で出来ています。
どんな些細な始まりもきっかけには違いない。
その全てを否定してしまうのは惜しいですし哀しいです。出会いのきっかけはどうあれ、その後で良い関係を紡げることもあります。
出会った相手が良い人であった場合は良き隣人、良き友人、仲のいい恋人ととして長いお付きあいが継続できるケースもありますから。
また師匠と弟子、指導者と教えを請う立場、共に仕事や勉強に励んだりそれぞれに励ましたり応援しあいながら道を歩ける例もあります。
そういった形で始まるお付き合いや友情もあり、私はその全てを否定しません。
不幸なのは、相手が良い人ではない場合ですね。
世の中そんなに良い人ばかりではありませんから・・・。特定の意図を持って相手を下調べしたり、悪意を持って近づく例もあります。
他人を利用することで組織の拡大を謀ったり誰かを騙す行為を。延々繰り返す個人や団体もあります。
相手の地位や財産、知名度や背景、若い女性の身体目当てに虎視眈々(こしたんたん)と狙っているケースもありますので、気をつける必要はあるんですよ。