人間は猿なのか?

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人間は所詮、猿?

様々な事件報道をみて思う事

狼 遠吠え

先ほど述べたような動物界の慣習、いわば子殺しや虐待というのは人間にはそのまま当てはまりません。

人間だけが言葉を持っています。文字として自分の体験を残し、次の世代に引き継がせることが可能です。それによって他の動物達とは違う生活習慣や道徳、環境の整備、動物とは異なる感情などを持つに至っています。

弱いものは群れで保護しようといった発想は人間界だけでなく、自然界においても時折、見ることができます。親を失った子供を別のまったく違う親(個体、種族)が身替わりに育てるような行為も、自然界では少なからず例があるのです。

狼に育てられた人間などがその典型例ですね。

※アマラとカマラ、として知られているこの記録は現代では解釈が変わっているようです。

孤児院を運営するキリスト教伝道師ジョセフ・シング(Joseph Amrito Lal Singh)に1919年に保護、養育されたとされており、23枚の写真と寄生虫を駆除した診察記録も残されていますので、彼らの存在そのものは事実です。

解釈が別れているのは「本当に狼に育てられたかどうか?」です。

孤児院で預かった障害がある子供を「狼に育てられた」と仕立てたのではないかとの疑念があり今も論議が続いています。

私がこのコーナーを書いた1997年にはそういった検証や記事を見つけることができませんでした。ネットが発達した現代ではウィキペディアなどに翻訳文が載っています。

映画にもなっており、教育や児童心理学の分野で度々参考にされている本でありよく知られた内容でしたので、私もこのコーナーで引用しました。

まあまさか心理学の教本で「環境説」を学ぶ時に使うもの、私が子供の頃に学校の教師から教わった内容がフィクションだとか誇張や大きな嘘があるとは思っていませんでした。

この場を借り、一部訂正の上でお詫び致します。

このホームページを開設した当初は検索エンジン(1997年にYahooJAPANがやっとスタート)が発達しておらず海外の情報は手に入りませんでした。Googleで気軽に検索できる今とは違うんですよ。

私は勉強と資料探しのため、国会図書館や大阪府立中之島図書館まで通っていました。

人間はサルと同じように群れで生活していますが、弱い者は群れで保護しようといった感情や道徳、システムを獲得しています。

文化としてもシステムとしても弱者を切り捨てる方向に偏ってはいけない。私はそう考えています。

一部の「大人になりきれない大人」が自分の子供を虐待した上で殺してしまうような事件が、最近多発しています。年端もいかない子供や、まだ自分で自分の生活を支える事のできない小学生中学生に虐待を加え、入院してしまったり。幼くして亡くなってしまった子供の体重が同世代の半分以下だったり、衰弱死、虐待死のニュースをみる都度に心が痛みます。

自分がホスト通いがしたいがためにまだ幼いわが子を自宅の部屋に押し込めてしまって。目張りまでして出られないようにして。飢えの苦しさから残飯やマヨネーズを漁ったり、残っていたトイレの水まで飲み干していたという痛ましい事件が起こっています。

大阪の事件で意識不明になった中学生がいましたが「帰ってこい、君にまだ話したい事があるんだ」と懸命に話しかける同級生をみて、涙が出そうになりました。

正直に言えばそういった身勝手な行為を行う親、卑怯な大人たちを行ってボコボコにぶん殴りたくなりますね。私は空手や合気道もやりましたし、仕事で怖い連中から脅された経験もありますよ。

同じように強い立場の者から徹底して暴力でも受ければ、こいつらは自分のやってることがわかるんだろうか? とも思います。

そういったニュースが多数あることは痛ましい限りです。他の動物とは違う文化や道徳といったものを持つ人間にとって、本来は起こってはならないことだと思われます。

強さの比較、価値観の多様化

人間の場合、少々複雑になっているのは「強さの基準」が自然界とは違い、多様化しているからです。

どちらかというとむしろ、人間界では腕っ節が強いとか喧嘩が強い、力づくで何かを進めるだけの人はあまり尊敬されません。

暴力的である=力が強い=群れのリーダーという図式が人間の生活においては成り立たないのです。

蛮勇(ばんゆう)との言葉もあります。すなわち、勇ましく激しいだけでは認められない。野蛮なだけだと馬鹿と同義語です。

勇ましさやたくましさに知恵とか勇気が伴わないと立派な人だとか、群れを率い守るための統率者、リーダーとしては認めてもらえない訳ですね(笑)。「あいつは力はあるが、それだけだからな~」と笑われる訳です。

興味深いのは人間だけが「文字」を持ちます。自分達の記憶や体験を過去に残す、誰かに引き継げる時点で他の生物とは異なっています。他の動物と異なった生活習慣や道徳や価値観を持ってしまったために、自然界では起こり得ない価値観を多数、作り出している点です。

芸術も理解します。絵画、写真、映像、音楽、詩や文学にも反応します。優れた生き方や道徳を説く宗教家や活動家、造形の美にも反応しますし、社会的な地位とか財産、肩書きにも魅力を感じる人達が出ます。

自然界であれば純粋にオスとしての強さ、個体の判断は比較的簡単です。戦って生き残るか、群れを追われるか老衰や事故で死ぬかです。過酷なようにも見えますがそうすることで群れを維持し、強い遺伝子に未来を託す訳です。

弱い個体が自然淘汰されることにより、自動的に強い種だけが選別されて生き残ることになります。

人間の場合、戦争が頻繁に起こったり不慮の事故にあったり重い病気や伝染病で次々に死んでしまう時代以外は、自然界の掟が当て嵌りません。他の動物達とは違い、人間には天敵となる動物がいないからです。

生物界の頂点に立った人間においては長い生存競争の中で、すぐに喰われて死んでしまうことは気にしなくてもよくなったのです。

すると、ただ単に「腕っ節が強い」というのとは違う判断基準が出来てきました。差し迫った生命の危機はなくなった訳ですから、単純に「喧嘩が強い」というだけで相手を判断することができなくなくなったのです。

むしろ、「乱暴なだけの人」は女性に徹底して嫌われるでしょう(笑)。女性ばかりか職場や仲間内でも浮きます。やはり群れで生活する現代人にとっても、規律を守らない人、横紙破りばかり繰り返す人、他人に攻撃的で配慮のない人は群れを脅かす存在でありあまり心地良いものではないんですよ。

人間の判断の基準は、「知恵と勇気」「根性と体力」の複合技が基本です。

人はサルであってはならない

実際には人間も猿山のサルとあまり変わってないのかもしれません。

お山の大将、ということわざもある。反対に集団で特定の個人や団体を苛めたり追い掛け回すこともある。古顔のボスがすでに体力も統率力も判断力も無くなっているのにトップの座にしがみついたりもします(笑)。

老害が居座ることは群れとしても種としても弱ってゆく原因なのですが、立場に固執してながーく、退いてくれない例も多々ありますね。

どんな強国であっても、一部の老人が居座り若手にチャンスを与えずただ蝕むならば、いずれ産業も国も衰退してゆくでしょう。

最近の報道では、子供や弱者をターゲットにした悲惨な事件や事故が目立ちます。本来、大人達によって庇護されなければならない立場の人達が、犯罪や大人達の身勝手による事件、事故に巻き込まれることが増えています。

人間だけが理性や道徳を持ち、弱い立場の者を守らなければならないのに起きていることは正反対です。幼児虐待や未成年者の略取や殺人、悪戯目的での女児誘拐など数え上げれば切りがありませんよ。

※このコーナーの初稿を最初に載せたのは1997年の8月頃ですが、状況は更に悪化しています。

人はサルとは異なり違い、理性や道徳、広い意味では人間独自の「文化」を持っています。大きな大脳を手に入れ、知恵を持ったのならサル山のサルと同じ行為を繰り返していい筈がありません。

シマウマや象にできることが、どうして人間にはできないと言うのでしょうか?

少なくとも子供達は保護されるべき存在です。

少子化が叫ばれるようになっていますが、子供を育み守るシステムがない、シマウマのように円陣を組んで自分が犠牲になっても「子供達を守ろう!」とする強い意思の大人たちがいないのに、ボロボロ子供だけ産むメスはいませんよ(笑)。

産んだ端から捕食者に食われますから・・・。後で触れていますが、社会の不備、道徳やモラルの低下が少子化を招き、子供や社会的な弱者を狙った犯罪を誘発しているのです。

本当に国の行く末を願うなら、子供達を育てるための環境整備がもっとも重要なポイントです。