覚悟を持ってあなたが懸けるものは?
当時の呪いとはね、現代にようにどこかのショップやインターネットで呪いグッズ(わら人形)を買い、気に入らない人を「死ねばいいんだ!」などとお気軽に願うのとは、レベルが違うんですよ(笑)。
何が必要かを調べ、全部を用意するだけでも大変です。
一時は幕府が法律で禁じたくらいなんですから。書籍も殆どありません。
口コミです。方法を知っている人を探す所から始めなければなりませんし、その人に口止めする必要もあります。
安易に形式とかスタイル(服装や道具)だけを物まねするのではなく、当時の女性の立場や呪いを行おうとした側の背負ったリスク、時代背景を比較しなければその意味などわからないと思います。
当時は他に方法がなく、どうしても怨みを捨てられなかった人は、相手を呪うことに自分の人生そのもの、全身全霊を懸けたんだと思われます。
あなたに自分の年収を何年分も捨てる覚悟がありますか? その後の人生を捨てられる?
おそらく江戸や平安の時代の女性は、そこまで懸けたのではありませんか?
私の元にも時折、おかしな依頼が持ち込まれます。
相手に仕返しがしたいだとか、恨みを晴らしたいので協力して欲しいだとか、「催眠で」合法的に手伝って欲しいなどです。
そういった申し出を行ってくる人は、誰かを怨んでいて「何とか仕返しがしたい」などと私にメールで送っきますが、よく聞いてみると同情出来ない例が多い。
自分が先にトラブルを起こしていたり、単なる不倫で後出しジャンケンだったり。
奥さんや子供を誹謗中傷したり逆恨みのケースも多いですね。
はっきり言えば、たいした恨みでもないことがある。
そういった人に限って家族や仕事に恵まれて収入も安定していますし、自分は何も失わず安全な位置にいます。
ちょっとお小遣いを出して
「催眠術を使って相手に復讐を!」
って言うのはお手軽すぎるでしょう。
何かを失うことも自分の人生の何かを懸けることもせず、ただ単に普段の言動で「相手が気に入らないから」程度で呪うとか恨むって言い張らないで欲しいですね。
趣味やアイドルの話で少々何かで揉めた程度で誰かに「死んでくれ!」と言うのならずいぶんと身勝手な話です。相手にだって家庭も仕事も家族もあるのですから。
ましてそれを赤の他人である私にわざわざ手伝えというのですか?
そこまで私が手伝ったり、背負わなければならない理由はなんでしょう?
これもはっきり言いましょう。
「あなたの全てを懸けるなら」
願いは適います。恨みは晴らせるでしょう。そのつもりで来ている人なら話くらいは聞きます。
それくらいの覚悟がなければ止めておくべきです。
穴は幾つあってもおかしくはない
自分が怨みや怒りに苦しんでいるから「痛みを忘れさせて欲しい」「怨みを忘れさせて欲しい」といってくる人もいますが、それも難しいでしょう。
私自身が時折そういった感情に囚われ苦しむことがあるからです。
私にも色々ありますよ。楽に暮らしていて悩み事がない訳ではありません。
激しい感情を持て余し、寝られない日が何日も続くくらい苦しむこともあります。
人間の感情はそんなに簡単なものではない。確かに一瞬で何でも忘れてしまったり、諦めてしまえるなら悩み事はなくなるでしょう。ですが、いつまで経っても同じ失敗を繰り返しますし成長もしなくなります。
何かで困る都度、催眠や私に頼るならその人は徐々にダメな人とか努力しない人になりませんか?
願いをかなえてもらう為に、次々に神社や仏閣、新興宗教団体にお布施や献金でもしますか?
それで誰が幸せになれるのでしょう? 今度はもっと酷い人に騙されたりしませんか?
施術を頼みに来た私が酷い人だったら? 都合よくお金だけ盗られませんか?
私としてはそのお気軽な感覚が、とても不思議に思います。
番組では最後に「人を呪えば穴二つ」という諺(ことわざ)を引用していました。
他人を呪って「穴に落ちろ」と願っていたら、自分の前にももう一つ穴があって結局そこに落ちてしまう、というものです。
これも他人を羨んだり、安易に呪ったりしないよう戒めたやはり先人が考えた優れた教えの一つでしょう。
ただ難しいでしょうね。自分の全てを賭けて本気で仕返しを願う人は、自分も一緒に穴に落ちるつもりでいますから・・・。穴が何個あろうと関係ありませんよ。
地獄に一緒に堕ちる覚悟をした者には、穴二つなんて戒めは効きはしません。
その人が自分だけ助かる意志があれば正しい諌めの言葉ですが、捨て身の人には通用しません。むしろ覚悟を決めた人には望む所です。喜んで引きずり込むでしょう。
人であれば激しい感情も持ちます。苦しい時もあり、許せない相手もある。それがなくなれば人間ではなくなりますから。
相手のあまりにもいい加減で卑怯なやり口にどうしてもそちら(復讐)に傾く場合もあります。
私はそれを全部否定したり、したり顔でわかったような言葉を並べ「あなたは間違っている!」などとほざく、インチキ坊主のようにはなりたくないですね(笑)。
私は、「呪えば穴が二つあるぞ!」などとは絶対に説かない。
どうしてもと相手が望むなら「一緒に地獄に堕ちる覚悟をしろ」と説きます。
懸けている「重さ」がまったく違う
私は何もかもを懸ける怨む人、呪う人に「止めろ!」とまではいえません。
人間であるのならそういった感情を持て余すことはあるからです。好きでそうなってしまうのではなく、仕方なくそちらに近寄ってしまう場合や抜け出せなくなる時もあると思います。
その全てを否定することはできませんし、間違いだとは言いきれません。人間であればどんな人にも起こりうることです。
精神的な悩み事を抱える人の多くは自らが望んでそうなる訳ではないのですから。
それこそ、血を吐くような思いで感情をぶつけていることもあるのでしょう。呪いがかなうとは思わず、悔しかった思い、辛かった思い、相手の理不尽さや身勝手さを忘れることができず、怒り悲しみと苦しさからそういった行動に出ることもあると思います。
だから私はその全てを否定することはできません。
ただし、忘れないでください。
誰かが死ぬように願う、ということはね。代わりに自分も多くを失う、ということなんですよ。
誰にも家族や仲間、友人もいるのでしょう。大切に守ってきた「何か?」もあると思います。捨て身でその願い(復讐や呪い、怨み)をかなえる、ということは、同時にあなたが大切に守ってきた多くのもの一緒に失う覚悟が必要になるのです。
恨みに完全に囚われてしまうと、優しさや思いやり、その人の本来持つ多くの特性、感情の一部もそのまま失われます。
世界各地で起こる自爆テロが幾重にも巡らした厳重な警戒にも関わらず成功を収めてしまうのは、そこに命とか心がないからです。
怨みを晴らし、目的を果たすために何もかもを賭け、命を捨ててかかってくる人にはどうやっても対抗する術がありません。全てを懸ければ必ず成功します。
一人でダメなら二人目を、二人でダメなら三人目を送り込んでくるでしょう。テロとは名ばかりで圧政や差別に対抗するために命を懸ける者もあります。
確かに死を武器に何かに望むのは間違っているのでしょう。ですが、その死を武器にしなければ対抗できない相手もある。復讐を誓う誰かにも、これまでを一緒に過ごした愛する家族や友人、大切に思う誰かとの生活、本来は夢や希望もある筈なのですよ。
それを「懸ける」から、同時に一瞬で「全てを失うから」望みはかなうのです。
繰り返しますが、全てを賭けるのなら願いはかなうでしょう。結果として多くを失うことにはなりますが・・・。
相手の死を真剣に願うのなら、自分も死ぬだけの覚悟が必要となります。
社会の良心、反省や弔い(とむらい)だったのでは?
呪いが「実際にあるかどうか?」は私にもわかりません。
私自身、過去に不思議な体験は何度もしています。
絶対に会う筈のない人に会う筈のない場所で会ったり、知る筈ない事実を夢やお告げのようなもので教えられたりと、常識とか理屈では説明がつかないことも数多くあって自分がビックリしたこともあります。
ですから、現在の科学とか常識が全てを推し量れるか? と言われれば自信がありません。
そういった意味では呪いも完全に否定するには疑問も残るでしょう。
ただ、歴史や過去の事例を調べて全体を考えてみれば、こういった推測は成り立ちます。
呪いとか祟りが「あるかどうか?」は私にもわかりません。ですが、「呪いがあって欲しい」と願った人達や、それが「あった」と考えて記録に残した人達は昔から大勢いた訳です。
そうでないのなら、あちこちの古い記述、例えば先に触れた平家物語(剣の巻)などにそういった記録(読み物も同じ)として残されるはずがないですね。
呪いが「あって欲しい」と願う人達がいたのは、すなわち、社会における民衆や民意の象徴で、一方的な非業の死を遂げた人への弔い(とむらい)の意味もあって、いわば社会における一種の良心のようなものではなかったのか? と私は推測します。
制圧した側、のちに施政者とか支配者側になった側が破れた側を貶めます。
悪者という言葉もありますが。元は朝廷、天皇家に逆らったものという意味があって。公民権、この国の民としての権利を奪われて山に追いやられた人達やその子孫もそう呼ばれたそうです。
勝った側が自分たちを英雄だと誇りますし、名将だと喧伝し記録に残すわけです。
討たれたほうが怨霊だったり鬼扱いにされるわけですね。
勝ったはずの相手に。よほど恨まれる非道な振る舞いとか惨殺行為、略奪行為があったとしたらどうでしょうか?
そういった行いを受けた側の遺族や親族、仲間や友人達が。
「祟りがあって欲しい」と願いませんか? 実は討たれたほうが善政を敷いてて。領民や地域住人に慕われていたなんて事実は無数に存在しますよ。破れたから悪とか鬼と呼ばれるだけですね。
私はそこまで誰かに深く怨まれる行為を働いた人間がまず愚かだと思います。
例えばですが、呪いがなくても復讐を企む人は現れるでしょう。「報いを受けるべきだ」と考える人達が複数いれば実行に移す人も居たかもしれません。
恨みや祟りで死んだとされる人が、実際には恨みから行動を起こした人に暗殺された可能性だって残るのです。
その幾つかが大衆の思いとなって、記録や印象に刻まれたのではないでしょうか?
社会にはあまりにも身勝手な人もいます。他人を傷つけて踏みつけにし、何の責任もとらずに自分はのうのうと暮らしている人もいる例もありますよ。
周囲(社会)がそれについて反感を持っていたり疎ましく思っていても、当のご本人は意に介しません。
誰かを騙す行為を当たり前のように繰り返していて「自分には(そうする)権利がある!」などと、勝手に思い込んでいる場合もあるのです。
そういったごう慢な人が不幸にあったり、天変地異や流行り病で次々と倒れたりすれば、「やっぱりあれは祟り(たたり)なんだ!」一般人は囁き(ささやき)あった、と思いますよ?
その当時は他に方法がなかった
どうしても仕返しがしたいとか、怨みが晴らしたいと願うのなら、誰にも止めることなどできません。
先に自爆テロなどにも触れましたが、死んでもいいと本人が思いそこまで腹を括って来られれば防御の方法がありませんよ。どんなに警戒を強めようと、死を武器に禍々しさ(まがまがしさ)をもって放つ命を止める方法などありません。
当時(特に平安時代)は呪いは法で正式に禁じられていました。
何らかの道具を購入した時点で相当の覚悟が必要です。当時の最高刑は死刑ですから。呪う、という行為そのものが違法ですし危険を伴うものでした。
発覚した時点で社会的な制裁を受け、地位や命を失う可能性があり、かかる費用もべらぼうに高額です。実現までには様々な困難が予測され普通なら諦める人が大多数でしょう。
それを諦めず、全てを賭けてそれに望んだ人がいる訳です。
そのあまりにも強烈な思い、峻烈にも思う心の痛み、一心な願望と痛ましい事実が、民衆や周囲の人達、下手をすればその酷い行為を行った本人にも「何か?」を呼び覚まし伝えたのではないか?と思います。
呪われる側が「よほど酷い行為を行っていた」との前提が必要ですが・・・。
そうでなければ周囲の同情は得られないでしょう。そしてその事実を公(おおやけ)にする必要が出て来ます。恥ずかしかったり苦しかった部分、辛かった部分を公開する必要があるのです。
それが「呪い」の発動の必須条件でしょう。
対象者の心の中のどこかに、やましさや悔悟の念がない限りそれを呼び覚ますことができないからです。周囲の同情や賛同、祟りがあっても仕方のないことだとの雰囲気も必要になってしまいます。
当時、呪いが反社会的行為として法律で厳しく禁止されていたのに行う人がいたのは、それ以外に自分の怨みを晴らす方法を持たなかったからでしょう。
呪いそのものが自分の持つ全てと引き換えにしてでもかなえたい願いであり、それまでの苦痛や悲しさ、悔しさや怒りそのものであったからではないでしょうか?
(それがいいかどうかはまた、別の話ですが)自分の生活を失うことを恐れ、自分の未来や将来を考えるのなら復讐とか仕返しなど止めておくことです。
生活や仕事、その後の人生の全てを賭け、そのためにどうしても怨みが晴らしたい、と願うのなら、どんな人でも止めることなどできないと思いますよ。
都合よく相手の人生、命や将来だけ「奪いたい」と望み、自分は安全な位置にいて「多くを失いたくない」と考えるのなら、到底目的はかなわないのでしょう。
それでも人はうなされる
私はこれまでに多くの人と会っています。
呪いがあるかどうかはわかりませんが、実力行使なら怨みを晴らすことはできます。
実際に誰かを刺してしまったり、怨みを果たすために殺してしまった人もいます。
子供の頃から性的な虐待を受けてきた父親を家ごと焼き殺した人を知っています。自分を裏切った女、一方的に利用しようとした男を包丁で追いかけて刺した人を知っています。
そういった事実をどこかから突きつけられ、人間の心の深遠を覗き込んでしまえば、あなたはどうしますか?
知り合いや友人、自分の家族や恋人の何かを知ってしまっても、冷静でいられますか?
そういった復讐例の多くは相手から一方的にくわえられた虐待、いじめや折檻、詐欺、搾取への反発であり、復讐というよりもむしろ「防御」に近いものです。
まあ本来はこういう言い方はだめなんでしょうが・・・。被害者(刺した側)がやったことは正しくないんでしょうが、私としては同情を禁じえません。
詳しい背景や事情を知れば、「なぜそこまで酷いことを、誰かが一方的に行う権利があるのだろう?」と疑問に思うこともある。相手が反撃しないと思い込んで身勝手な行為を繰り返す屑も世の中には無数にいますよ?
私がこれまでお会いした人の中には、結果として人を刺し殺してしまった人もいます。
罪に問われてしまい、長い期間をかけて償った人もいます。
真剣に復讐を考える人は覚えてください。
相手側により多くの罪がある。散々、嫌な思いをしてきて一方的な虐待をくわえられた、とします。
その相手を「殺してやろう、それが当然だ」と思うような酷い仕打ちを徹底して受けてきた、としましょう。復讐は当然で別に悪い事じゃない、と考えたとします。
それでも復讐のために殺してしまえば人はうなされるのです。
人を殺したことのあるヤクザをみました。普段は豪胆で腹が据わっており、悩みや痛みなど欠片も見せようとしない。抗争で何人かを殺しており、それについて「仕方なかったんだ」と言います。
懲役にも行っており、形式上、罪は償っている。
組織の対抗上として仕方なかったともいえますし、下手をすればどちらが死んでいたのかもわからないでしょう。
それでもね、私はそういった人が夜中にうなされ、飛び起きるのを何度も見てきています。
そういったものを見たり知る都度に
人間というのはなんて不思議なものなんだろう?
と私は思います。
良心の呵責(かしゃく)があるんですよ。それが無意識の領域から覗く。
相手に罪があり明確な落ち度がある。相手に対抗するためでしたし、下手をすれば自分のほうが危なかったのかもしれない。だから「仕方ないんだ」「当然なんだ」と思っても、人を殺してしまうとどこかに歪みとか苦しみが生じてしまう。
それが無意識の領域に残っているから、普段は豪胆でまったく気にしないようにみえる人が深夜に飛び起きる。
殺した人が夢枕に立ったとか幽霊を見たと言い張る人もいましたよ?
人というのは本当に不思議なものですね。
あなたは人でいられますか?
命は尊いものでしょう。どんな理由にせよ、誰かが一概に奪っていいものではないと思います。
ですが、命が尊いものだとしたらその重さは同等でなければなりません。
餓えや渇きに苦しみ、一方的な差別や加虐、虐待や蔑みがあるならそれを何らかの方法で跳ねのけようとする人も現れるでしょう。
自らの命を賭して・・・。呪いは当時、それくらいの価値があるものだったのです。
それを鼻で笑えますか? それは間違っていると諭したり、呪いなど何の効果などないと決めつけて相手を罵ることができますか?
少なくとも私にはできませんよ。
呪いが実際にあるかどうか、マイナスプラシーボ効果なるもので「人が殺せるかどうか?」など私にもわかりませんよ。
ただ、不遇のうちに殺されたり死んで、今になって神と崇められるようになった人達の中には、多くの人達の思い、亡くなった人への憧れとも同情とも尊敬ともつかぬ思いがあります。
亡くなれた方の思想とか行動、その生き方に大勢が共感したり魅せられるからだと考えます。
まあ、当のご本人達は死んでから神に祭り上げられるより、家族と平穏無事に暮らしたかったと思いますが・・・。
人はその強烈な思いで、自ら鬼にも魔にもなれます。場合によっては神や仏にさえなれるのかもしれません。
私はできることなら鬼でも魔でも神?でもなく、普通に人でいたいと望みますが、難しいのでしょうね・・・。
人は強い感情から気がつけばそうなっており、自分でもどうしようもないのでしょう。
昔話でも、鬼や魔になってしまった人間の多くは、自分が元の姿を失っていることに気がつきません。
ある時、鏡や水面に映る自分の姿を見て、自分の変わってしまった姿に始めて気がつきます。その姿に驚いて「あさましや」と言って哭く(なく)のです。
私も気がつけば鬼として哭くのでしょうか?
呪いがあるかどうかは知りませんが、そういった話が実話、挿話として数多く書物や記録に残されてしまっていることに私は神ならぬ身、人として悲しい気持ちがして複雑な心境になります。
2002年01月25日 初稿
2018年12月19日 加筆、修正
谷口信行