伝わってゆく「噂」
当時は夜中にうろつく人などいなかったんですよ。今の時代とは違う。暗やみは怖いものです。
時代劇の影響でね。いつでも外を出歩いていたかのような錯覚も受けますが。後の時代、江戸期に入ってからも提灯を持って出歩けるのは大店とかお金持ちに限定されていて。
護衛なり下男やお供の者がいない状態で出歩くことはしていませんよ。
橋姫の時代、平安期になると一部の遊び人(牛車で女の家に通う人)か酔狂な人、盗賊を除いて危ないので出かけることはありませんでした。
特に女性は少ない。男なら夜ばいとか夜夜遊びも多少はあり得ますが、夜鷹(売春をなりわいとした女性たち)とか商売であっても近所にあぶれ者(ヤクザ)を雇っていたり、深夜は避けました。
今とは闇夜の深さが違う。固く戸を閉ざし寝てしまうのが一般的です。
そこを髪を振り乱し、死に装束に身を固めた女性が一心不乱に駆け出してゆくのです。
それは恐い光景だと思いませんか?
見た人は心底驚いたでしょうね。今のようにテレビとかビデオとか映画が発展していた時代ではない。
写真もないんですよ? 胆(きも)を潰すというか腰を抜かしたでしょうね。それはいつしか、まことしやかな噂となってあちこちに広がっていった、と思います。
それはそのうち、呪われている相手にも届きます。
「○○町の○○さんの娘が男に振られて物狂いになった」とか「呪いをかけて相手を取り殺そうとしている!」との噂になったでしょう。
これは恋愛沙汰だけではありませんが、ごう慢な人は他人を振り返りません。踏みつけにしても気にしないのです。身勝手な行為をやっても当たり前だと思っていますから、カエルのツラに小便ですよ。
何とも思いはしません。それどころか、やがてそのことそのものを忘れてしまいます。
何度も迷惑をかけ、大勢に嫌な思いをさせても平気でいられるのはそれが悪いとは思っていないからなんですよ。自分のためには誰かが犠牲になるのは当然だと思っており、自分は都合よく忘れられる。
その「忘れていた」相手、仕事やプライベートで一方的に利用して捨てた相手が「呪いのために鬼になっている」との噂が、遠くから届きます。
最初は笑うのでしょうね。「どうせ、たいしたことはできない」と・・・。
「その程度の奴だから、利用されたし、捨てられたんだ」などと、のたまう事になります。
そういった男(場合によっては呪われているのが女性であるケースもアリ)は、自分がやったことを都合よく歪めてしまったり、簡単に忘れてしまうくらいですから。
そんな物どうってことはないんですよ。
相手が死のうと生きようと自分とは関係ないとも思っています。
多少噂が伝わったり、相手が何かやっているらしいと聞いても「少々、面倒だな」くらいにしか思っていません。むしろ、自分とか関わりのない所で「あっさり死んでくれればいいのに」程度に捉える人が多いでしょうね。
そういった人の多くは、怨霊とか呪い、咒(まじない)の力などまったく信じてはいないでしょう。
人の怨念、妄執の力
私のような特殊な仕事をしている人間が、こういっては身も蓋もないですが。
呪いを用いるなど本来は意味がありません。
そういうものを信用していない相手には徹底的に馬鹿にされる方法なんですよ(笑)。
それは平安時代だろうと、江戸時代や現代だろうと変わっていません。これだけ情報が発達した時代に未だに「呪い屋」とか「藁人形であなたの恨みを晴らします」などと煽っているサイトもあります。
そんなものを真剣に恐れる人は、最初から誰かを踏みつけにして利用したり、他人を利用して面倒なトラブルなど起さないのです。
神仏を尊び呪いを恐れる人なら、誰かと別れるにしてもきちんと手順を踏むでしょう。
何らかの災いとかトラブルが、自分や家族に降りかかることを恐れますから・・・。
そういったものなど信用せず他人の痛みがまったくわからないからこそ、そういった行為を平気で行う訳です。だから、笑っていられるんですよ。
ところがね、人間の妄執、意志の力は物凄いのです。
鬼になった人間、すなわち呪いを行う人は、不可能とも思われる荒行を毎日寝食を忘れて打ち込み、周囲のとりなしや仲裁、蔑みや哀れみに関係なく徹底して満願の日まで行おうとします。
なにしろご本人は願い(呪い)がかなうなら死んでもいい、と思っていますから。
自分の命と引き換えに相手の命をも奪おうと真剣に考えます。
どう考えても不可能で、むしろ恨みや呪いを諦めさせるために考えられた方法を疑ったり考え直すこともなく、自分の思いだけを込めて一心不乱に行います。
それは流石に怖いでしょう。
いつかその状況が噂話となって周囲からジワジワと伝えられるようになります。得意先とか共通の知人、友人を通じて何となく広がります。
その時には恨みを買ったご本人が行ってきた、数々の愚かしい行為や非道をなどもセットになって皆に伝わるのでしょうね(笑)。広がった先が一人なら笑い話かもしれないですが、複数になると大変です。
あいつは酷い奴だ。
そのうち刺されるんじゃないか?
程度には受け取られるでしょう。
それはやはりプレッシャーになるでしょうね。
どんなに厚顔で図々しく、卑怯な人でもまったく気にしない、どうでもいいという訳にはいかないと思います。
昔の文献にはね。丑の刻参りや呪いを辞めてもらおうと家来を遣わしたとか謝罪をしたって話も多少は残されていたりするんですよ。
最初から鬼だった訳ではない
余談ですが、恨みと妄執を持ち、鬼となってしまったり相手に仇(あだ)成すほどの強烈な反応を示す人の多くは、元々、優しさと悲しさを持ちあわせる例が多いのです。
(陰陽師、という映画でも描かれていましたが)男性でも女性でもそうですが、過去の記録に「呪いを成した(なした)」とされている人の多くは、非業の死を遂げており周囲(民衆や物語の書き手)の同情や涙を誘います。
後に「祟りを成した」と言われる人の多くが生きていた頃に自身の能力を正当に評価されることなく、時の権力者や周囲に思惑に利用されたり使い捨てにされたようなケースが多いのです。
温情があったり、地域住人に優しかったり、何かを守ろうとして権力闘争に破れたり、理不尽な濡れ衣を着せられて処罰されている例もあります。
だからこそ、周囲に亡くなったことを惜しまれ悲しまれます。
どんな罪状を着せられようと、その人の人柄や功績、人徳を偲んで
「あぁ、◯◯様が亡くなった」「きっと帝や都を恨んでおられるに違いない・・・」と言われるようになります。
時代と共に転じて怨霊から格上げされて神様になっている例が幾つもありますね。
有名な所では平将門や菅原道真などです。
こういった人達も素晴らしい和歌や文章、政策を遺しています。ただ単に都に帰りたいと望み、それ以外に何も言わなかった例も多々あるのです。
貴人(貴族や天皇)や武家の子供にもそういった例があって、その願いがかなえられずに非業の死を遂げた後で祟りを成したとされるのです。
地震、雷(かみなり、いかづち)や疫病、大火や時の権力者の失脚などですね。
正当な能力や実力を評価せず優しさを踏みにじったり、利用して徹底的に貶める(おとしめる)行為を行ったからこそ、その怨みは根深く「きっと祟る」と周囲には受け入れられたのでしょうね。
最近になって現実に起こる復讐劇や殺人などにおいてもそれは同じで、ご本人に優しさや愛情があったからこそ、裏切られたり利用された時の怒りや苦しさも格別になり、その思いが衝動となって本人を突き動かします。
元の人格が温厚であったり、善意で関わった人とか愛情を注いだからこそ激しい行動に駆り立てることとなります。人間は妄執に囚われると簡単には出てこれません。強い思いと優しさがあったからこそ、その妄執は強まりその身と心から引きはがすことができなくなります。
すると、その全てのエネルギーは怨みを晴らすためにだけ向けられます。
そうなると、自分の人生もお金や仕事やご主人(結婚している人も含まれます)今まで大切にしていた子供もまったく関係ありません。
怨みを晴らし、相手に祟る(災いを成す)ことだけがその人の生き甲斐となるのです。
古(いにしえ)から言われる「鬼」がどういうものかはわかりませんが、考えてみれば、この姿がかなり近いものでしょう。人はその意志で、鬼にもなれます。
リスクなしで適うものなどない
相手を呪い殺そうと思ったり、相手に何らかのマイナスの情報を与えて仕返ししたいと思っても、それは簡単ではないでしょうね。
丑の刻参り、という非現実的にも思える手法が巷に浸透し、それで願い(怨み)がかなう、晴らせるという噂がまことしやかに広がったのは、そこに背負うべきリスクがあまりにも多かったからです。
必要とされる道具は全て高額で手に入れにくいものばかりです。行う手法は難しく、下手をすれば命がけです。暗い夜道を出歩けばどんな人が待ち受けているかわかりません。
半端な覚悟でやっていたら襲われる可能性も高いですし、呪っている相手が誰かを雇って待ち伏せさせることだってありますよ? 女性と使い捨てにして平気な男です。仲間を雇って襲わせるくらいはやりかねませんよ。
厚顔で他人を利用してはばからない人、周囲を振り返らない人は図太いでしょう。誰に何といわれようと平気ですし、嘘も偽りも当たり前のように行います。
自分の都合で世の中は回転してると思い込んでいますから、他人に配慮する必要すらないのです。良心の呵責に悩むこともなく他人の言葉に傷つきません。
そういった人間に怨みの言葉で情報を与えても、受け入れる(影響を受ける)ことなどしないでしょう。
ところが、呪いだけは違った訳です。
何度も繰り返しますが、行う側は命がけです。それこそ本当に死にかねない方法ですから・・・。それを行い、願い(呪い)を果たそうとしています。周囲のとりなしや制止を聞くことはなく、自分の全てと引き換えに相手を道連れにしようと本気で願うのです。
その思いは強烈でしょう。
その状況がどこかから伝えられてしまえば、流石に気分が良いとはいえないでしょう。知らないフリばかりも決め込んでいられなくなります。事実、江戸時代の文献には怨みから毎日、神社で呪いを行うようになった女に男が謝り、何度もとりなしに行ったとの記述が残されています。
呪う側が真剣で死んでもいいと本気で願い、自分の人生の全てを失うことを恐れずに何もかもを懸けるから、恐れをもって周囲に受け入れられ相手に届くのではないでしょうか?
おそらく半端にやっていたら真に受ける者など誰もいないと思います。
マイナスのプラシーボなるものがあるのかないのかは知りませんが、それくらいのリスクを背負ってやらない限り効果などないと私は思いますよ。