► タイトルは「意欲」
こんにちは。忙しいのに申し訳ありません、またメールを送らせていただきます。
谷口さんに頂いたメールを頂いて考えた事を書きます。
この間、谷口さんにメールを頂いた時、最初は、人を救うという事の何が悪いのだろうかと思いました。
しかし、よ〜く考えてみると、その考え(自分の)について悪い点が浮かんできました。
僕は、何とかして人の役に立ちたい(人を救いたい)と考えていました。
しかしそのように考える事が逆に、自分の知識や能力で物事を解決しようとして相手の気持ちを全く無視して一方的に物事を考えるだけになってしまう事に気づきました。
それに、谷口さんにいわれたように他人を救いたいというなら、無償の奉仕でなくてはなりません。
自己本位な考え方をもっていてカウンセラーになりたいといった僕はダメ人間ですね。m( )m
しっかり反省して、もっとしっかりした考えを持てるような大人になるために日々精進したいと思います。
そして、勉強の事です。
メールを頂いて気づいたことがあります。
僕が最初に谷口さんにメールを出した時、僕は催眠をかけて頂いて勉強をするための動機付けをして欲しいと考えていました。(この時はお金を出してでも勉強さえ出来るようになればいいと考えていました、本当に申し訳ありません)
しかし、たとえその催眠が成功したとしても、僕自身の乗り越えるべき壁を乗り越えずにいたら、僕自身はきっと成長せずにそのまま大人になって、甘ったれた事を考えていたと思います。
自分の意志を鍛えるのは自分自身しかないのだと思います。
楽なほうに向いていく自分に、NOということが自分の意志を鍛えていくのだと今ではそう考えています。
> あなたの現在の苦労や苦痛こそが、将来、他人に関わる際に力となり、あなたを助けるはずです。
といわれてそう感じました。
本当にありがとうございます、谷口さんには心から感謝しています。
今、僕は、谷口さんにメールを出して本当によかったなと思っています(お世辞じゃないですよ)。そして、他の人に出していたら今頃どうなってただろうかと思うとぞっとします(笑えません)。
これから、僕はもっと自分に厳しくして、集中して勉強する事が出来るようになるために頑張ります。
そして、もっと自分の事を見詰め直して、自分のこれからについてよく考えたいと思います。
それでは失礼します。◯◯◯◯
追伸:谷口さんご推薦の「ローラ、叫んでごらん」という本ですが、今月の二十日に講談社から出版されるらしいので、すぐに買って読みたいと思います。
► タイトルはRE「意欲」
あなたもいずれ、気がつくでしょう。
他人が、他人にできることの少なさに。
どんなに大切に思おうと、どんなに心配し、何とかしてあげたい、と望もうと、その通りに行かなかったり、思ったような結果に終わらないことはよくあります。
私がカウンセラーを目指そうと考える人に「相手を救う、と思ってはならない」と言うのはね、その思い込むことで、相手(相談者や患者、過去や現在に何らかのトラブルを抱える人)を見下ろすような感覚が身につくからです。
そのごう慢さは、とても危険なのですよ。少なくとも専門知識を持ち、そういった正解の「専門家」や「先生」となった人間が、周囲にそういったごう慢さを押し付ける時、社会には大きな混乱やトラブルを招きます。
◯◯医大の◯◯「先生」、という人が、どういったトラブルを起こしたかわかりますか? 「私が患者を救ってやるんだ!」「私がこの病気についてはもっともよくわかっている!!」といいながら、問題の多かった製剤を使い続け、多くの危険性や問題性に目を瞑り、多くのエイズ患者をつくり出してしまいました。
被害者は堪りませんよ。あなたが当事者であれば、どう思われるでしょう?
どんなに助けてあげたい、と望み、懸命に行おうとうまくいかない場合があります。
特にカウンセリングの場合、「私が」、つまりカウンセリングを行うものが「救う」のではなく、ご本人の意思や考え方、その方向性が、自分自身を救ったり、苦しめることになるからです。
これは私の本にも書きましたが、カウンセリングを行おうとする者が相手を「救う」とか、「助けてやってるんだ!」などといった感覚を持つ場合、相手は無条件にすがってきます。
自分に都合のよい答えを与えてくれる医師やカウンセラーを求め、あちこちを彷徨う(さまよう)ことにもなりかねないのです。
それは本当に救いなのでしょうか?
そういった感覚が、多くのカルト、いかがわしい集団などの住処、温床をつくり出しているのではないでしょうか?
「お金さえ払えば、何だって解決しますよ」と告げるのは簡単です。
ただ、そういったことを相手に告げる多くは、それを自分自身が信用してはおらず、ただのお金儲けとして相手を利用しようとしているに過ぎないのです。
カウンセリングには多くの苦痛を伴います。自分の過去の思いや苦しみ、悲しみを引き出しからあけて、相手の持つ苦しみと照らし合わせ、何とか解決の糸口がないか、探すようなものだからです。
真面目にやればやるほど、儲かりませんし(笑)悩むのですよ。
精神科の医師や、外科手術を行う医師で、「腕がいい」「優しいし丁寧だ」といわれる人ほど、後で深酒してしまったり、私生活で無茶な遊びをする例が多いのはね、それだけ、苦痛もあるんですよ。精神的なバランスがとれないのです。
私も御多分に漏れません。飲みに行けばバカもしますし、ついつい、深酒になることもあります。なのに、人は私の一部分だけを見て「いい仕事ですね」とか「人を救える仕事を私もしたいです」などと言ってきます。
反対に、普段の苦痛から逃れ、飲みに行ったり、バカをやってストレスを発散させている部分だけを見て「あんな人だとは思わなかった」とも言われるのです。
タレントさんや番組関係者などには多かったですね(笑)。私は常に先生として、隙なく身構えていなければならないのでしょうか?
仕事として関わっていれば、救いたい、とこちらが望んでもかなわない場合が多々あります。救うことのみを目的として何かに関わるなら、救えなかった時に多大なショックを受けます。
私だって、傷付くのですよ。人間なのですから。
カウンセリングや医療に関わる人で、本当に相手を思う人の多くは傷付き易い部分を持っています。自分が傷付き易く、悲しさや苦しみを知っているからこそ、そのプレッシャーと向き合い、少しでも自分にできることがないか、探すのです。
もう一度、繰り返しますが、他人が他人にできることはかなり少ないのです。どんなに「救いたい」と願い、どんなに努力し、願おうとかなわない思いもあります。
他人が他人にできることは少ないのですが、それでもできることがあります。その「少ない」たった少しの触れあいや思いやりの中に、相手を救ったり、悲しみや苦痛から逃れる何かがあることもまた事実なのです。
私は巷にはびこる安易な「癒し」とか「救い」という言葉が大嫌いです。ですから、私のホームページや著作にはそういった言葉が一切書いてありません。
癒しも救いも、その人の中にあります。何かのテクニックや肩書き、思いや考え、方法や方向を押し付けるのではなく、ただ、引き出し、聞いてあげ、手伝ってあげる必要があります。
時には怒り、時には励まします。場合によっては一緒に泣いてあげる必要もあるかも知れません。
忘れてはならないのは、相手を癒すのはテクニックなどではなく、相手を思う気持ち、相手を理解しようと勤める些細な、でも忘れてはならない懸命な姿勢なのです。
他人にできることは少ないが、それでも、「何かができる筈だ!!」と信じて、懸命に何かに取り組むなら、きっとそこには何かの答えがある筈です。
ps.
本についての情報に感謝します。
今度の更新でホームページ上で紹介します。もし、許可をいただけるのであれば、◯◯さんとのメールの受け答えの一部も、抜粋して用いさせて下さい。今後、カウンセラーを目指す方などへの参考にもなるでしょうから。
今回の受け答えを見れば、あなたが聡明な人であるとわかります。通常は(私の返事に対し)怒ってメールに返事を書かなかったり、勘違いして見当違いな返事が返ってきたりもします。
あなたはやはり、そういった職業につくべき人でしょう。初心を忘れず、自分にできる部分から努力を重ねて下さい。