ありそうに見えて、なかなか存在しない場所
あなたは「誰かに」救って欲しいですか? 哀れんで欲しい?それでその人は本当に幸せになりますか?
そういった人は自分が無意識に相手を見下ろしていることに気がついていないと思います。
例えばですが、あなたが飲みに行ったとしましょう。あなたが女性でホストクラブにゆくのでも、あなたが男性で女性の勤めるラウンジやキャバクラに飲みに行ったとしても同じことですよ?
いつ飲みに来ても、家庭や仕事場の悩みごとや愚痴しかそこで繰り返さない人が、そのお店で歓迎されたり喜ばれると思いますか?
相手も商売です。お金を払えば多少は受け入れてくれますし、理解も示すでしょう。時には同情してくれて優しくしてくれるかも知れないですよ?
ですが、幾ら商売とはいえ常に愚痴ばかり繰り返す暗い人は歓迎はされませんよ。
やはりモテる人とか人気のある人はカラッとした性格の人で、他人に痛みを「受け入れてくれ」と常に愚痴ったり、誰かの悪口を並べて同情を買おうとする人ではないのです。
ましてその内容が毎回ヘビーであれば尚更です。そういったお店、つまり「お金を払って遊びにいっている筈の場所」ですら、なかなか受け入れてはもらえません。
お金を払う側からすればそれは理不尽にも感じます。対価を払いながら自分の話を十分に「聞いてもらえない」「自分が思った返答と違う」と感じるからですね。
これ、カウンセリングにも通じるんですよ(笑)。
相談したものの思ったような回答が得られないとか、同情してもらえないと感じた場合、その人は徹底的に相手を悪く言いたくなったりもします。
社会においては愚痴や悩みごとを一方的に聞いてもらえる窓口というのはまず存在しません。安らぎや救いが「存在しているように」繕う商売は多々ありますが、現実的には極めて少ないでしょう。
他人の悩みや愚痴を聞くことには「苦痛が伴う」からです。
聞く側も影響を受けて嫌な気分や辛い気分になったり、意識がシンクロして同化するケースもありますから・・・。幾ら仕事だからといってもなかなか割切れはしないのです。
それは私にしても同じことです。
相談者の中には夜中に私の携帯電話をガンガン鳴らす人もいましたし、意味のわからないメールを長期間、大量に送り付けてきた人もいます。
慣れているとはいえ、やはりあまり嬉しくはないですよ(笑)。
精神的に落ち込んでしまったり、怨嗟の連鎖に捉まった人は「藁をも」掴みます。要するに不満をぶつける相手は「誰だって」いいのです。
考えてみて下さい。あなたが逆の立場に立てば簡単にわかります。
四六時中、いつでもどんな時でも相手の悩みを聞き、相談に向き合うことが可能ですか?それが一人ではなく複数だとしたら? 時には疲れることも、嫌になることもありますよ。
「他の仕事より楽そうだから」とか、「他人に感謝されてお金がもらえるから」程度の浅い感覚では、とても勤まりませんよ。
相談の場所は色々でいいと思います
常に相手の悩みと向き合うのは勇気が必要なんですよ。根気も要りますよ?
また、本人に何かの方向性を示し、悩みからの脱出方法を考えなければならないなら、いつもただ単純にウンウンと頷けばいいという訳にはゆきません。
だからといって、相手を叱りつけ「がんばれ!」と励ませばいい、という訳でもないのです。
難しいと思いますよ。もし現在、カウンセリングや悩みごとの相談などの仕事に、何らかの形で関わりながらその内容を「簡単だ」と思い込んでいる人がいるとしたら、かなりごう慢な人でしょう。
こういった仕事を行っている私が言うのも変かも知れませんが・・・。
何も相談場所はカウンセラーにのみに絞る必要もないのです。
ゲーム機やスマホでも広大なネット社会に気軽に繋がる現在では、対処法を医者とかカウンセラーに直接聞くばかりが方法ではないですよ?
はっきり言えば息抜きを行い、自分が気分転換をしたりリラックスできる場所があるなら、相談場所は「どこでもいい」と考えています。何もカウンセラーとか精神疾患の専門施設である必要はない。
例えば恋人に会っていたり、家族や友人と話すことで自分の精神的なバランスがとれるとしたら、それは悪いことではありません。むしろ、とても望ましいことでしょう。
専門職といったって赤の他人ですし。医療関係者やカウンセラーよりも家族や友人が受け入れてくれてストレスが軽くなったり、気分が明るくなるならそのほうがいいのです。
普段は相談に乗っている側の私ですら、時には友人や知人、恋人や家族に相談に乗ってもらうことはありますよ。常に先生で周囲の相談に乗りっぱなし、ということはないのです。
それでは心のバランスがとれませんから・・・。私も時には自分を見失います。人間ですから。
私をスーパーマンか超人のように勘違いする人もいますけどね(笑)。どんな人であれ、そんなことはあり得ませんよ。人はどこまでいっても人です。
ネット上においてカウンセリングや相談を受けていると言う人の中には、まるで自分が神になったかのように振る舞う人がいますが、それは商売上のテクニックや作りごとでしょう。
そう振る舞ったほうが信者が集まったりお金を集めるのに都合がいいからそう振る舞うのであって、それは事実ではありません。
例えばですが(私個人はそういった所に出入りしませんが)何かの息抜きや相談の場所は、宗教でも何かの団体、占いやお店であってもいいと思います。
ただし、生活基盤を失ってしまうとか家族や友人、仕事をないがしろにするとか繋がりを絶ってしまう、洗脳と呼ばれるケースに当てはまらないならば、の話です。多額の費用がかかったり家族や友人に心配をかけない範囲なら許されることでしょう。
カウンセリングや催眠などもたくさんある相談場所の一つでしかないですね。
カウンセリング、サポートの意味
私は壺もお守りも御札も売ってませんよ? 著書はこれから多少は増えるかもしれないですが、無理やり売りつける行為は絶対にしないでしょう。
テキストも含めて興味がない人が手を出すべきものではないですし、相談を請け負っている側が著書やグッズを無理やり売りつけるなら、それは迷惑行為になってしまいます。
カウンセリングや誰かの相談にのることはね、はっきりいってしまえば知識、技術、まして資格だけの問題ではないでしょうね。
何かの資格やマニュアルに相手を当てはめることで全てが解決するなら、私が毎回、ウンウン悩みながら相手と向き合うことなどなかったと思います。
人間はそんなに単純ではないのですから・・・。
その人の置かれている立場、状況やケースによって全ての解答は異なってくると思われます。
これは自らの自著の中でも書いた言葉ですが、カウンセリングや相談を受けている側は自分の持っている全ての知識と経験、技術に照らして解答を求めます。
ただし、それが絶対の正解かと言われれば自信はないですね。
その時のベスト、もしくはベターを懸命に模索して探してはいます。
ただし神様じゃないですから間違いのない道筋とか、必ず正解にたどり着くショートカットなんて持ってませんよ。
それはライトノベルとか漫画でのお話です。
その仕事にかかわる者としての義務感だけでなく、自分の生き方や考え方、過去の経験や読書量、資料や知識も全てひっぱりだして、相手と向き合う瞬間があるのです。
私はカウンセリングとは、何かの正解とか解答を「相手に一方的に与えること」だとは思っていません。
そんなことにに意味があるのではなく、お互いが一緒に悩み「解決方法や出口はきっとあるんだ」と信じて出口を探してヨタヨタとでも進むことが、もっとも重要だと考えています。
人は皆、寂しいんです。そして誰も一人きりでは生きられません。
時に迷い、悩み苦しみます。その苦しんだ時にお互いが知恵を出し合ったり支えても悪くはないでしょう? 元気が無くなった時に何かに頼ることが悪いとも恥だも私は思いません。
ただ、いつまでも頼り切りになって、ずっとすがってしまえばそれはまた新たな問題を生じさせます。
ですから、自分の足で立てるようになるまでサポートすること、また杖に頼り切りになってかえって足腰が弱らないようにすること。自分の足で歩ける所までを見つけてあげること。
それがカウンセリングやサポートにおいて、重要なポイントだと考えます。