効率とか採算性だけを重視して多様性や個性を否定しないで
時間に追われる現代社会ですから。どうしても無駄な時間は短縮したい。下手に手間をかけるよりもコンビニや外食チェーンで簡単に食事なんて済ませたいでしょう? 料理に時間をかける分だけ余暇を過ごしたり仕事や勉強、睡眠時間にあてれますから・・・。
便利で簡単です。お金があれば全部が外食でも済んでしまう。ですが、その子が女の子であった場合、恋人とかそのご家族に、奥さんとして快く受け入れてもらえますか? 何の料理も出来ず、交際相手のご家庭にもご両親にも馴染めず、一緒に食事もできないかも。
それは後で苦労することになりませんか?
利益採算性とか効率だけを重視して「簡単でお手軽だから」と努力しないとか、正解だけを手に入れたり、全てを有り物だけで済ませるようになったら。多様性とか個性は生まれませんよ?
それじゃまるでブロイラーです(笑)。流れ作業で効率よく卵を生んで、用が済んだら首を絞められてお終いですか? それで自分の人生を歩んだと言えるのでしょうか?
人間はやはり、経済動物とは違いますから・・・。簡単に使い潰すとか効率だけで考えるのは間違いでしょう。適材適所といいますか、それぞれが自分に合った職場や環境を目指すべきだと思います。
絶対的な正解がたった一つの訳はないですし、価値観とか目指す方向性、思考は様々でいいと思います。サッカー選手や野球選手を目指す人がいてもいいし、公務員や官僚、一部上場の企業を目指すのもいいし、実業家や自営業、実家の家業を継ぐ人がいてもいいと思うのです。
また「勝つ」ことを教える場合には、それに入れなかった場合も教える必要があります。
統計で言えば一部上場企業に就職する人は社会全体の10パーセント程度に過ぎません。残りの90パーセントはその下請けや周辺、生活に必要な別の仕事に従事することになります。
それを「負けた」と親や大人たちが教えるのは新たな差別の火種になります。
1000万円以上の年収を獲っている人は全国民の数パーセントに過ぎません。バブル期の最大で8%で不況時には5%未満で推移しています。これはアメリカやイギリスのような先進諸国なら殆ど変わらないようです。新興著しい中国などでも似たような数値です。
運良くトップから10%に入れた場合にはラッキーでしょう。ただし残りの90%に入ってしまった場合にはどうしますか?
上位の数パーセントに入れる人は少数です。そこにたどり着くことばかりを「がんばれ!」と子供達に教え続ければ、はみ出した人間はどうでもいい人間だ、といった印象だけが色濃く残ります。
親も子供も勘違いしていますがその限られた数パーセント、選ばれた人達のメンバーになるためならば「どんな卑怯技だって繰り出していい」と思い込む子達も現れますよ?
そういった感覚のまま育った子供たちが、将来どのような未来を作ると思いますか?
エリートになれ、と教えたはずの大人とか親が。効率から考えれば邪魔になります。お年寄りを老害と呼んで憚らない(はばからない)世代も生まれています。親とか祖父母、社会的な弱者である障がい者を排除したら。「自分たちの月々の支払い」「税金が安くなる」と考えはしませんか?
上位の数パーセントの人間に入れば「我々は選ばれた存在だ!」と考えるようになります。選民思想に近いでしょうね。誰かを見下すことに何の痛痒(つうよう)も感じない人達になるでしょう。
反対にそこから漏れ「はみ出した」と感じたり「落ちこぼれた」と受け取る人間の一部は社会を恨んで騒動を起こします。目標を見失いますから。不幸なタイミングとか巡り合わせで先頭から漏れただけで本来は優秀な人達もいます。
その優秀な筈の人達がやけになって周囲に迷惑をかけることを厭わなくなるので、通り魔事件や放火騒動、テロ事件の下地となります。
実際には社会には自営業も販売業も職人もいば、学校の先生も公務員も大手企業の下請けもある。縁の下の力持ちという諺(ことわざ)もありますが、社会には多様な職種があってそれが必要とされているのです。元は下請けとかベンチャーの小さな会社が大きく羽ばたいた実例もあります。
ミュージシャンも物書きも漫画家もアニメーターや映像屋も旅行社も必要だからそこにある。職業に貴賎(尊い、いやしい)などはない。
その部分を教えずに金とか実入りの部分だけ教えてしまえば取り返しがつかなくなるでしょうね。物を作ったり難しい基礎研究などはせず、マネーゲームと違法行為ばかり繰り返す連中のみになります。
それでは社会生活そのものが成り立ちません。
子供達が大人から教わらなかった物
子供たちが目的を見失うのは多様性や様々な価値観を教わっていないから。だから先頭コースからちょっと外れただけで自分の今いる場所や、価値観を見失うことになるからです。
マラソンの先導者から離れてしまって、自分の走っている位置やコースがわからないなら早くなんて走れませんよ。
ネットが発達し、膨大な情報に簡単に触れられる時代だからこそ人の価値観や役割、仕事とか目的が様々であることを子供たちに教える必要があるのでしょう。
未来は様々で目的も複数ある筈なのに、日本を取り巻く現在の社会情勢においてはあまりに一点に絞り過ぎです。競争からドロップアウトすること、他の道筋を目指すことを「負けることだ」と教えてしまえば後々、問題にしかなりませんよ。
エリートコースなるものから外れることを「恥だ!」と教わり、そうだと思い込ませる文化や社会は「お金さえ貰えればなんでもいい」といった感覚の子供達を次々に生み出す原因になると思います。
現在起っている「いじめ」の問題や、刃物を使った少年犯罪、路上生活者を襲撃する事件なども、そのような社会や教育の姿勢に一因はあります。
効率を求め、勝つことだけを中心に教育を受け、それを学ぶ意味やはみ出した場合の対処法を教わらなかった子供たちは「はみ出す」ことや「置いていかれる」ことに強い恐怖感や不安を覚えます。
結果、「自分たちよりも落ちこぼれている者」や「はみ出している者」を追いかけ、いじめたり、仲間はずれにする対象にします。
そうすることで安心するからでしょうね。
最近はLINEとかSNSでも虐めや仲間外れが起こっています。
恐怖心の裏返しなんですよ。路上生活者は「はみ出した連中なんだから襲撃したっていいんだ」「憂さ晴らしになるし」に繋がりやすい。彼らも同じ人間だとは教わっていませんし。ドロップアウトした負け犬に優しくしてやる必要なんてない、と本気で思い込んでいる子達がいます。
この状況は、会社におけるリストラなどにも当てはまりますね。
言葉を返してみると不安感から誰でも標的になり、誰でも「いじめる側」にも「いじめられる側」にもなり得ることを指し示します。
仕事を好きで首になったり好きで路上生活者になるものはいません。社会情勢や不幸な巡り合わせタイミングです。事故や病気、体調不良、年齢なども関係している。
努力をサボった者だけがドロップアウトするのではなく、真面目にやっていてもそうなってしまうことがあるのが現代社会なのです。
ところが、子供たちはそうは教わっていない。
「あれは負け組だ」などと指さして笑い、石を投げつける行為が当たり前だと思うんですよ。
教わっていないからこそ「群れる」
「はみ出せば負けだ!」と大人や教師から教わります。
文化の多様性や職種の変化、様々な方向性や目的があるとは教わらず、ただ単に「良い大学に入りなさい!」「入りさえすればあなたの将来はバラ色なんです」と教わった子供は、他の道筋を知りません。
はみ出すことを恐れることからこそ、集団を作ります。
一人でいられなくなるんですよ。他と同化していない人は罪だと教わって育っていますから。
結果として同じような流行を求めてグループを作ったり、インチキ宗教などの「私たちと一緒にいれば安心だ」というような詐欺に参加したりひっかかります。
(自分達の集団、グループから)はみ出していなければ安心だ、と勘違いします。一人なら不安になりますが、集団で同じ方向を向くならその集団で行われることは全て、「正義だ!」といった感覚に近すり替わりやすいからです。
その感覚は自分たちさえよければ他がどうなっても構わない、といったごう慢さを生み易く、自分達の安心感のために全てを肯定も否定するようになります。
時代と共に名称だけはコロコロと移り変わっていますが。会社や企業という大きな器であろうと、新興宗教やカルトという限られた器であろうと、チーマーとか暴走族などと呼ばれる集団やグループであろうと中身はだいたい同じです。
自分たちだけで群れる。邪魔だと思ったり毛色が違うだけで排除する。中には理不尽な要求、単なる嫉妬とか羨望から何の罪もない普通の人とか一般人を誹謗中傷することもあります。
大きい小さいの差こそあれ、行われていることや求められていることは似ているのです。
子供の頃から社会には多様な価値観があることを教え、絶対的な正解とやらを「大人が押し付ける」のではなく「共に探す」教育が必要です。
そのためには「これが正解だ」と教えるのではなく、一緒に悩み考える大人が必要になってきます。
これが時間がかかるんですよ。料理で下ごしらえをしたり、隠し包丁を入れたり、職人を育てるのに似ています。その一手間とか下ごしらえ、修行が料理を美味しくするんでしょうけれど、利益効率や採算性、かかる手間や時間を惜しんで端折り(はしょる、省略する)たくなります。
現在、起こっている問題の多くは何らかの効率に追われるあまり、大人たちが子供と一緒に考えること、悩むこと、時間を割くことをしなくなったからではないでしょうか?
少なくとも、私にはそう受け取れます。
ただ単に目標を掲げてみせて「従え!」「アレが正しい!」と押し付けてしまっても何も解決しませんよ。そのような姿勢がかえって問題を複雑化させています。
そろそろ、社会環境や教育そのものを見直す時期に入っています。