コミュニティにおける最大、最低限のルール
宅間守死刑囚の事件は厳密に言えば、精神障害者とは違います。
確かに彼は心に闇は持っていたでしょう。裁判中に幼い家族を失った被害者遺族に何度も罵詈雑言や中傷を浴びせて最後まで「ざまあみろ!」と叫んだような男です。心が荒んでいたりおかしい部分があったのは間違いない。ですから異常者には間違いありません。
彼の心の中には相手を思いやる心が欠片も存在していないのですから。普通はそこかに良心の呵責(かしゃく)とか罪悪感を持つものです。
人間性善説を唱える方々はたくさんいらっしゃいますが、心理学者や精神科医にもそういったものの信奉者は多い。できることならば、どんな凶悪犯の心にも「良心が存在して欲しい」との願いというか祈りにも近いでしょう。ある種の信仰でしょうね。
残念ながら私は性善説をまったく信じていません。社会には良心の呵責など一ミリもない連中も数多く存在していますよ? 確かに過去とか育った環境を覗いてみれば同情すべき点とか両親が不在だったり幼い頃から虐待に晒されていたり厳しい環境で育った人達がいます。
ですが、じゃあ厳しい環境とか酷い両親に育てられたら。無関係の第三者とかまして子供を惨殺して虐待して手足を捥ぐ(もぐ)ような行為を繰り返していいわけですか? 奈良県では幼い女の子を性的虐待目的で攫って殺したブラジル人までいます。
光市の母子殺人事件などもそうですが。加害者の親が酷い人間だったからその子供は殺人を犯しても許されるべきなのでしょうか? 自分より更に幼い子供、抵抗も証言もできない乳幼児を床に叩きつけて絞め殺しているのに? それが更生というお題目だけで許されるべきなのでしょうか?
人間として守るべき最低限のルール、聖書にも載ってる最古の禁忌が殺人ですよ。特に罪もない幼子は殺すなと諭しています。その悪意や狂気が自分の子供とか家族に向けられたとしたら? 人権派を名乗る人達は絶対に怒らないのでしょうかね?
裁判が思ったように進まず自分たちが不利になっただけで記者会見で怒鳴り散らすような連中が、そんな菩薩か神様か仏様のような「慈悲」の心を持っていると私は思っていません。あれが人権派という名称で括られて社会に認められるようになったら恐ろしすぎますよ。
どんな残虐事件を起こそうともどこかに良心を持っていて、遺族に謝ったり反省して処刑台に登って欲しいとか謝った後で罪を償ったり処罰を受けて欲しいとの願いは多くの人の心の中にあります。
人間がそこまで酷い、とは思いたくないですから。
宅間守の場合は終始、世間を社会を親や家族、別れた妻や同級生、あげくは何の関わりもない一般市民や子供たちを呪い、罵倒し中傷しながら絞首刑台に上がった男です。一度の謝罪もなかった。おそらくですが、その頭の中には遺族への反省も謝罪も存在しないでしょう。
ほんの少しだけどこかに後悔はあるでしょう。ですがそれはむしろ、自分がヘマをやったとの思いであり「次にはうまくやれる」との思いかもしれませんね。
普通の人の何倍も社会を憎む気持ち、自分の置かれた環境や親や周囲を怨む気持ちが強く、そちらが常に心の中で勝つために謝罪の言葉や態度などまったく見せなかったのだと思います。
すべて「俺が悪いんじゃない」「社会が他人が悪いんや!」があのタイプの男の主張でしょう。
確かにおかしい。ある意味では精神を病んでいます。ただし、こういった人達を「精神障害者」に混ぜるのは誤りです。悪意がないとか計画性がない、不幸な巡り合わせや「罪の意識や判断力がない」ものが行ったことは我慢して許そうが本来の精神耗弱状態、「罪一等を減ずる」だったのですから。
何の罪もない人を巻き込んで地下鉄にサリンを撒いたような異常な集団もあります。自分達の身勝手な教義を常に引きあいに出し「我々は社会を救っているんだ!」とのたまう。
そのためには誰を殺しても「神の意思だ!」と叫びます。
そこには何の思いやりもなく身勝手なひとりよがりだけがあります。家族や周囲、社会の多くに迷惑をかけ自分達の権利ばかり主張する愚かな集団だと思います。それはもはや教義でも宗教でもない。
どんな教義も宗教も守らなければならないルールがあります。コミュニティの根本、ルールの基本でもっとも大切なものは極めて単純です。
「相手を殺さないこと」ですよ。
何をやっていい、は通らない
どんな人もそれぞれにルールに縛られていいます。生きている限り何かに縛られます。不満や不具合もあるんです。
誰しも好きで縛られているのではない。
それでも守らなきゃいけないルールがある。それを皆が踏み外すとコミュニティそのものが崩壊するから。その根本の部分を彼らのような身勝手な犯罪者は自分勝手に曲げてしまっていることになります。
思想も教義もイデオロギーも根本は「コミュニティを守るため」で、本来は人々が「生きるため」に存在します。教義や宗派を守るために誰かを殺すようになったら本末転倒ですよ。
「教えを広めなさい」とは書かれています。自分たちの主義主張、教義や宗派を広めるために多くに語りかけ書物を残し、ボランティアや弱者の救済、困っている人の手伝いをする。それが宗教としての基本原則であり布教活動の原型です。それを誤解したり歪めるほうが間違い。
適当な教義とか宗教、育った環境を理由に「何をやってもいい」は当て嵌りません。自分の身勝手のために犯罪を行って良いとか国が決めた法律や規則、ルールを無視していい、まして周囲を傷つけたり命を絶っていい、というものではないでしょう。
それならどんな国にも住めませんよ。それは異質というだけではなく異常者であり、多くの人達の生活や命、コミュニティを脅かすものだからです。
自分達が他人に傷つけられたとか虐げられたから「誰かを殺すのは自由だ」とか「精神疾患を持ってるから」「過去にいじめや虐待を受けたから」殺していいんだには決してならない。
オウムや宅間守に関して言えば、彼らは子供を殺してしまっています。
コミュニティにおいて子供たちや乳幼児は、もっとも大切にして育むべき存在です。
最近は一部の人権派を自称する人達もそれを助長しています。最近は精神障害を殺人犯を助けるための道具、思想を押し付けるための理由にしてしまっている雰囲気があります。本来はそういった意図で作られた法令、特例ではないと思うのですが・・・。
PTSDなどもそうなんですけどね。訴訟時に賠償金吊り上げるための道具のように扱っている連中もいます。PTSDにかかったはずの病人? が事件からわずか数日でマスコミ各社から堂々とインタビュー受けてるのをみる流石に驚きます。
PTSDとは本来、経過観察によって診断されるものです。少なくとも数ヶ月は反応をみるでしょう。ベトナム帰還兵などがこういった症状を起こすので名付けられた病名ですが、彼らも何年もの診察を受け、投薬治療や経過観察を経て診そういった病名、診断を受けています。
事件の直後ならPTSDという病名はつかない。将来的にそれが「疑われる」というだけでしょう。正式な病名はもっと後につくんですよ。多少なりともまともな医者ならそういった診断はしないでしょう。
思わず観察してしまいました。外に出てくることができて多くの人達の前で堂々と話すことができる。声に震えとか脅えもみられない。それが事件後たった数日であるならば、いったい誰がこの人に「PTSDとの診断」を下したんだろう? と不思議にも思います。
おかげでそういったものへの偏見も増えて、今ではなかなか診断書が出なくなりました。病院側がPTSDを疑って診断書を提出しても詐病のように扱われるからです。
これは一部のマスコミとかその病名を悪用した弁護士やそれに加担した医療関係者の責任ですよ。PTSDという単語は今ではすっかり詐病、訴訟道具の代名詞になっています。
後で詳しく触れますが、精神的な障害を持つ人々を特例として扱い罪を問わなかったのには日本の歴史的な背景もあります。少なくとも無辜(むこ、なんの罪もない人達)の民とか社会的な弱者、抵抗できない女子供や、妊婦を連続で惨殺する犯人を擁護して助するために作られた法律ではありません。
困るのはそういった詐病とか本来の使い方とは違う解釈を一部の人達が繰り返しているため、本来はコミュニティで助けてもらったり、治療を受けられるはずの人達、トラブルや偏見を回避して恩恵を受けるはずの人達が厳しい目で見られて差別に苦しんでいることです。
違いを認識して欲しい
そういった凶悪な事件を引き起こす連中、トラブルを起こす彼等は確かに精神を「病んでいる」といえば病んでいます。ですが、そういった人達を「精神障害者」と呼んでひと括りにするのは間違いです。
そういった犯行を行う者には自分で自分の行動を選び、動くだけの意志と能力、身体があります。介助や介護が必要ではない。金銭的な余裕がある者も多い。運転免許や車持ってる連中もいますよ?
宅間守がそうでした。偽物の名刺と肩書きを用意して職業も偽っていました。犯罪を行う前に周到に計画を練ったり下見に行く事すらある。それのどこが心神喪失なのでしょう?
責任能力がない「精神障害を持つ人」はそういった計画的な行動がとれないのです。悪意を持って何日も待ち伏せるとか下見をすることができない。名刺を用意したり高収入がある医者だとの嘘話で女性を騙したり性行為も行っていないでしょう。
入り組んだ計画を行うとか、隠ぺい工作を執拗に行うような「能力がない」からこそ除外されるのです。
突発的なもので計画性がない。悪気や作為がない。保険金目当てや利益のため嘘を塗り重ねたり、損得のための悪質性がない。だから形式上は事故とか過失致傷に近い扱いになりました。
犯罪が発覚して逮捕された後になって心神喪失を主張するものがいます。私には無関係ではありませんがそういったものの中に「多重人格」を訴えるものまで出てきています。
最近の事件では社会生活において仕事をしたりブログを更新したりSNSやTwitterまで駆使して被害者を騙したり集めようとします。運転免許まで取得できてるのに、犯罪の時にだけ精神病や障害者だったと言い張ります。多重人格だったから「無罪にしろ」と喚き散らしている実例があるんですよ?
おかしな話です。あちこちで堂々と自分の身分を偽り、偽物の名刺すら用意します。また、それを自分で作るだけの能力があります。そこまでできるのに犯罪行為に対してだけ「責任能力がない」と言います。全ては障害とか多重人格? のせいでご本人様には罪がないんだそうで。
光市の母子殺人事件でも同じですよ。泣き叫ぶ子供の横で殺人とか屍姦行為なんて普通の男なら出来ないですよ。その時点で萎えて帰りますよ? 女性の方に勘違いしないで欲しいですが、あれが男性一般の意見とか反応ではないですよ。そんな野獣というか異常者なんて殆どいません。
少なくとも証言も抵抗も出来ない赤ん坊を殺す必要はない。無視すればお終いです。はっきり言えば用は済んだのですから。幼い子供を殺さなければ最初から死刑判決などはなかった。その男が面白半分に子供を殺したから、罪が重くなったのです。
アメリカでも少年法に準ずるものはありますが、光市のような事件ではどの州でも結局は最高刑になるでしょう。理由は簡単です。犯人が自分よりも「更に幼い子供」を惨殺しているから。
中高校生が小学生を銃で撃ち殺して死刑判決や終身刑を受けた実例があります。アメリカは子供の人権にうるさい国です。ただし、うるさいしそれを守るからこそ、いくら少年とか未成年とはいえ幼い子供や乳幼児の命を奪った場合には厳しく罰せられる傾向があります。
都合がいい時だけ「アメリカでは」とか「日本以外の先進国では」と言い張る人権派や日本のマスコミはそういった部分についてを報道しようとしていません。Googleなどの検索、言語翻訳が発達しましたから。気になる方はご自分で調べてみてください。
犯行時において「証言ができない」ということはとても重要です。盲目の人の前で誰かを撃ち殺したとしても証言はできません。姿形を見ていないし「相手が誰であったか」の証明ができないからです。