宗教だから「何やってもいい」は本当は通らない
以前に「日本において宗教団体が優遇される理由」という記事を書いています。
長いとは思いますが、カルト宗教などが日本で蔓延って(はびこって)いたり、それをなぜ、政府とか警察が取り締まれないかについて書かれています。
できれば、そちらも読んでおいてください。
信仰、宗教の自由は憲法(日本国憲法第20条)により保証されています。
「信教の自由」には、以下の点挙げられます。
内心における宗教上の信仰の自由 – 特定の宗教を信じる自由、信仰を変える自由、宗教を信じない自由。
問題となるのはですね。その「宗教上の信仰の自由」という文言を拡大解釈して、どのような布教活動も自由だ、どんな迷惑行為、営利活動を行なっても「これは宗教活動だから構わないんだ!」と強弁する連中が実在していることです。
日本国憲法第20条にはね、こういった一文もあるのですよ。
宗教上の結社の自由 – 宗教団体を設立し、加入する自由、活動する自由、または加入せず活動しない自由。
「宗教を信じない自由」を保証もしています。と同時に「宗教に加入せず、活動しない」権利や自由もまた、保証しています。
自由とはね。「我々の意思で、どんなことも好き勝手にやったっていいんだ!」ではないのです。その「我々」の意思とか意図がコミュニティ、多くの人達に迷惑になるならそれは権利などではない。
権利ってのは必ず義務とセットです。どんな「自由」にも枠組はあります。学校が嫌いでそこから自由になりたいからといって、深夜に学校の窓に石投げつけて割ってまわったら。
そりゃ逮捕はされますよ。
信仰の自由には絶対条件、守らなければならない「義務」が存在します。
他人の生活、つまり、社会や日々の経済活動、生命などに決定的な悪影響を与えないことです。
信仰の自由はありますが、反対にその信仰や宗教を「断る自由」も保証されなければなりません。
誰かが自分を正しいと信じ込んで一方的な無理強いはいけませんし、信仰の自由を無闇に拡大解釈すればいいってものでもない。それを無視するのが洗脳者でありカルトですよ。
双方の自由意思を尊重、生活や命、経済活動や学業を重んじた上で、「信仰は行いなさい」が大前提となっています。
子供や家庭、家族や仕事を放置してどうすんですか?
宗教家であったり、宗派や信仰を名乗る以上、絶対に守らないといけないのは「命」です。
つまり、個人の尊厳とか生き方、子供達を含む弱者の保護、信者や信徒達の生活を脅かさないことです。
本来、宗教とは一部の幹部達が贅沢をするために生み出されたものではありません。
人々をより良い方向に導く、戦乱や飢饉、大災害や疫病で悩み苦しむ人達を「救うこと」を目的とし、設立されたものであるはずなのです。
だからこそ、多額の寄付や献金を求めて信者の生活を圧迫したり、家族や子供をないがしろにしたりはしてはいけません。
揚げ句に若い女性に「身体を投げ出せ」と教祖が求めたり、子供達の世話を放置して集会やイベント、政治活動にだけ、必死でまい進しているのならば、おかしいのです。
そんなものは宗教でも何でもない。ただの営利活動であり大人というか一部の異常者の身勝手な思惑です。そこに「神様」だとか「教義」だとかが入っているなら尚更、薄汚れていて見苦しいものです。
どんな宗教も宗派も、本来は「汝の隣人を愛せ」と言いますし、「暴力や殺人は良くない」と言いますし、家族や仲間、友人を大切にしろ、くらいは言いますよ。
まともな宗教とか宗派、「宗教家」であるならば家族や仲間、仕事をないがしろにしろだとか放置しろだとか、まして「親族には会うな」などとは言いませんよ。
そういった発言を行なったり、信者や参加者の行動を抑制、制限するならカルトであり洗脳なのです。
これは私の持論ですが、宗教は「人々が生活し、生きるためにのみ」存在すべきです。
誰かを苦しめ、家族や仲間を悲しませ、利益を求めて強引な勧誘を繰り返す。献金や上納金ばかりが増え、子供達がみすぼらしい格好をしていたり、ひもじい思いをしている。
で、幹部が高級車を乗り回してでっぷり太っているようでは、とても宗教などと呼べませんよ。スピリチュアル、などを名乗る連中もなぜか、美食家や太ってる人が多いようですが・・・。
私としては強い違和感を覚えます。
信者のほうが痩せている。粗食に甘んじて「教義」とやらを真摯に守っているなら、その指導者なり幹部は、更に厳しい環境に身を置くのが筋です。
自身は甘い環境に浸って飽食を貪り、女性をはべらしながら、信者や信徒、悩んで相談に来る人にのみ、何かの荒行や苦行、献金や義務を押し付けるなら、それは神様なんかじゃありませんよ。
神様や指導者、宗教どころか、人として屑です。
危機意識を持てないから、悪化してから訪れる
アムウェイのような紹介販売(マルチに近い)とかね。カルト宗教のみならず、大きなトラブルに発展するものは社会に数多くあります。
私が若い頃にもやってる奴はいましたよ? 大笑いなのが以前の解説では、商品の宣伝や広告、販売店などを持たずに「紹介販売のみ」で行なっているから大きな利益があり、それを会員に公平に分配することが出来るのだってのが、彼らの売り文句でした。
私がテレビ番組などの出演した際にね。「一緒にアムウェイで儲けましょう!」って恥ずかしいメールを何通も送り付けてきたお馬鹿さんもいます。
そのアムウェイが、今じゃ堂々とテレビCM打ってます。
昔から眺めている私からすると、彼らが自分達で掲げてきたお題目「広告費の削減」や「販売方法に関する説明」が全部、嘘だったという証明になってしまいます。
テレビ局相手に高いお金を払ってCM広告 打ち、ネットでも宣伝をやっている。口コミで紹介販売のみだから高い収益があって広告料が要らないって話はどこにいったんですか?
巧妙な説明とか取り込み方法はたくさんあります。確かに背景を知らずに聞けば、それなりにもっともらしく思えるのです。それが「洗脳」と呼ばれるものの第一歩。
多大な実入りや利益をちらつかせたり、宗教や信仰をもっともらしく語ったり、世界平和とか社会正義を語る者の多くが、「これは洗脳ではない」と言い張ります。
「洗脳だー!」「マルチ商法だー!」と怒鳴りながら、近づいてくるなんてのは稀。殆ど存在しませんよ。世界平和だとか社会貢献だとか、飢えに苦しむ子供を救うために協力してくれって言うんです。
またマルチ商法や詐欺商法を疑っても「絶対にそういうものではない」「安心ですよ」「いつでも辞められます」と必ず言うものです。
ですが、実際には在庫を多数買わされて支払いに追われてしまったり、集団で取り囲んで精神的な拘束を受け、脱出が不可能にされてしまうことがあります。
危機意識があるならね。最初からそういったものには近づきません。
弱い犬には弱い犬なりの処世術なり、防御方法がある。それが正しいんですよ。
猛犬のように歯を剥き出しにしてワンワン大声で吠える事が正しいと私は思いません。誰かに馬鹿にされようと、臆病だと鼻で笑われようとトラブルを上手に回避できるなら、それは立派な能力でしょう。
それをあざ笑うほうが愚かしいのです。
好奇心から何かに誤って参加したり、付き合いで行かざるを得なくなっても、他の誰かに相談したり話す機会が多い人は、どこかで彼らの矛盾に気が付きます。
問題となるのは、本来はしっかりしている人で警戒心もあるのに、何らかのトラブルがあって精神的に落ち込んでいたり、孤独感で嘖まれている時に接触されてしまい、一瞬で悪意のある連中に取り込まれてしまうケースです。
ご本人とかご家族とかね。恋人とか職場の仲間とかね。相方に「危機意識」が薄いので後手にまわります。そうなると大変です。油断している間にしっかり取り込まれますから。
その程度はたいしたことがない、と思っているので何の対処もしません。防衛策も打てない。気づいた時にこちら側から通告とか警告してもまったく無視します。危機意識がないですから。
深く関わるのも面倒くさい。「そのうちなんとかなるだろう」「戻ってくるんじゃない?」と漠然と思ってるうちにご本人は実家にも友達にも近寄らなくなり、場合によっては行方不明になります。
そうなってから慌てても遅いのですが・・・。これが結構あります。