生きる意味について考える

私(わたくし)的な観察 , , , ,

生きてゆくために必要なことを

オオカミの遠吠え アイコン「生きる意味」などと書くのは大げさかもしれませんが・・・。

震災や原発事故なども相次いでいて、不安に陥っている人も周囲にはちらほらいますので、この際、そういったタイトルで延べたいと思います。

これは著書でも延べましたが、私自身が阪神淡路大震災の経験者でもあります。

他にも過去に暴漢に襲われたとか、仕事上でヤクザとトラブルになって凄まれたとか、刃物持った変な奴に絡まれた程度は何度か経験があります。前歯折ったとか顔が変形して晴れ上がったなんてのも何回かは経験済み。

過去にはご家族から依頼を受け、洗脳や宗教関係者からの奪回に出向いて、そういった連中に恫喝を受けたなんてのもありますね。

まあ、男ですからね。多少の喧嘩とかトラブルに見舞われることはあります。

一生のうちにそういったものに一度も遭遇しないほうが、むしろ珍しいわけで・・・。

私は若くして地元を離れてますし一人で各地をまわることが多かった。親の庇護の元とか学生時代からの友達とだけ、ずっとなれ合う生活もやっていません。

一人で外に出て、自分で仕事をしたり生活するようになればなった分だけ、トラブルや嫌なことも近寄ってくるようにはなります。

私が途中、格闘技(空手や合気道、剣道や棒術)などに傾倒するようになったのは、そういった苦い経験があって自分自身の身を守る意味と家族や仲間を助けたいとか、トラブルから守ってやりたいとの思いもあってのことです。

譲れないもの、守りたいものも当然ある

男には失いたくないものもあれば、捨ててはならないことや譲ってはならない部分もある。

これも言葉にすれば大げさに感じるかもしれませんが、それを失えば男じゃなくなる。

これはどんな世界、業界や仕事においても同じだと思います。特に男の場合は多少は向こうっ気が強くないとやってられませんよ。

世の中には理不尽なものがたくさんあります。

徒党を組んで嫌がらせをする者や身勝手な連中、ちょっとでも弱気に出ると自分の都合を押し付けてきたり、金をぜびったり、あげくには女に手を出したり仕事を奪おうとする屑(あえてこう書きますが)なんてのも大勢いるものです。

私は綺麗事は言いませんよ。それが社会の現実です。

それらと向き合おうと思ったり、戦おうと思ったり、誰かとか何かを守ろうと思うなら自身も鍛えておくしかなくなります。

体力的にって意味もありますが、学力や人脈、経験値、知識や人格をも含むものです。

40歳半ばを過ぎた今でもね。私は腹筋なら500回はやってますし、スクワットなら1500回は余裕で出来ます。30分くらいならフルに動いても息切れ一つしないでしょう。

ここ数年は体調不良や眩暈、膝や首の故障で苦しんできました。関節に問題があるので動かせば時折、鋭い痛みもある。スクワット一回するだけで左膝は異音もあります。

定期的にかなり酷い眩暈や頭痛などもあります。

ですが、それでも日ごろの摂生やトレーニングは日々欠かしていません。

何事も必要なのはまず「心構え」

私は今回の震災が起こる少し前から徐々に身体を鍛えて体調を整えていました。

理由は簡単で、今後、どうしても「やりたい仕事がある」から。

体力や気力が充実しないと仕事どころではなくなります。

また、今回のトレーニング再開には他にも理由があります。

若い頃に空手や合気道やって自主トレで腹筋1000回、スクワット1000回くらいはやった経験がありましたが・・・。1日4時間くらいは練習と自主トレやってた時期があります。

それを「今の年齢で」やれるのかどうか?が知りたくなりました。

何かの解説をする時に「若い時の話ばかりを繰り返すおっさん」では意味がなくなります。

新しいテキストで自己トレーニングやゾーンへの入り方やその解説を行なっていますので、自分自身の身体で実践もしておきたかったんですよ。若い頃の経験だけで文章を綴るのではなく、今の年齢で実際にやっている、やれることを解説の基本にしたいと考えました。

プロバージョンのテキストには高野山などで行われる荒行に関する記述もあります。

若い頃に修業やトレーニングできついものを経験する人はいますが、年齢が上がってからでも「可能かどうか?」は確認しておくべきでしょう。

修行僧の中には高齢者もいます。そういった人が苦しい修業ができるのに、解説してる私が年齢とか体調不良を理由に何もしないのは、やはりよろしくないでしょう。

昔の経験だけを引き合いにして口先で延べるのは簡単です。ですが、歳をとってからでもやれることはある。若い頃と年齢を重ねた時の両方で経験と知識があってこそ、可能になる解説や分析もあると思うのです。

人間は日々、歳を重ねます。

20代、30代と40代は身体のキレや動き、回復力も違う。若い頃の経験は大切なものですが、一線を離れるというか年齢が上昇したり、トレーニングが多少難しい歳になった時にも実体験があって始めて延べる文章や解説にも「説得力がも増すのではないか?」と考えます。

40歳を過ぎて自主トレで延々スクワットなどをやっているのは、基礎体力作りとか、ましてどこかで「誰かに暴力を振るう」「意気がるため」や自慢などではなくてですね(笑)。

新たなものに挑戦したり、向き合う時にはどうしても必要なものもあるんですよ。

いわば、心構えや気構えですね。空手や合気道、格闘技風に言わせてもらうなら「気を練る」のです。「気力」の回復、精神力のトレーニングの意味合いが強いと思います。

若い頃とは違う部分がたくさんあった

身長は182cmあります。体調不良もあってしばらくは寝込んでいましたので、体重は一番重い時で95kgほどもあったのですが、現在は76kgまでに減らしています。

ネットで自分の体重や身長を検索してみると「た、高田延彦とほぼ同じやんけ!」(プロレスラーです)と気がついてがく然としました(笑)。

現時点で約20kg減ですね。一時期は73kgまで減らしたのですが、運動量を増やしたら徐々に筋肉(特に太もも)がついてしましまして・・・。

太もも回りは60cmほどあります。

身長があるのと元々、着痩せするタイプなのでそうは見えませんが、太ももはすでに競輪選手並になってるのかも(笑)。

昔から脱ぐと驚かれます。

実は絶食などのほうが得意なんですが、そのやり方で急激に痩せると皮膚が余ってしまいますので・・・。脂肪層を絶食などで一気に減らすと皮膚と筋肉の間に隙間が出来ます。

一度、そういった形で皮膚のかい離(皮膚がたるむ状態)が起きると、除去するためには外科手術しかなくなるそうで・・・。10kg程度の減量では問題ないのですが、20kgを超える(全体重の5分の1から4分の1程度)を減らす場合には注意が必要です。

私の場合は途中、わざと減量のスピードを落として運動量を上げ、皮膚のかい離を防ぐようにしました。

スクワットなどは若い頃より今のほうが回数があがります。

もっとも重さは若い頃のほうがあがったように思います。バーベルを背負ってのスクワットだと最大で200kg持ち上げたことがありますが、今なら無理でしょう。

疲労の回復とか、蓄積に関しても若い頃よりも今のほうが楽な感じがあるのですが・・・。不思議なものですね。事前の予想とはかなり違います。

持久力のトレーニングって年齢はあまり関係ないのかもしれないですね。

これについての詳しい解説はテキストか別コーナーに行ないます。

日々、起きてくるトラブルや障害、悩み事

サッカー アイコン災害とか震災も含めてですね。生きてゆくってことはそのまま、毎日のトラブルを処理することです。

毎日、食って寝て仕事して子育てして。たまにエッチしたり博打やったり野球やサッカーで熱くなったり、酒飲んだりして。人間ね。そうたいしたことはやってません。

強烈な上昇志向持ってて毎日、ゴリゴリに仕事やってる人でも生活そのものはそんなに変わりませんよ(笑)。所詮、人間ですから。

犬は「ワン!」としか吠えれません。飯食って昼寝して散歩して、たまに飼い主に「ボールを投げて遊んでくれ!」と甘えます。昔の血が騒いで遠吠えすることもある。ありますが、種として設定されていない行為は行なえません。

どんな動物にも種としての限界や本能はあり、人間もそれに倣うのです。

今年の1月にも書きましたが、一休禅師(アニメ一休さんのモデルとなった人物)の言葉にこういうものがあります。

世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり

この「起きて稼いで食って寝る」って単純な作業が、結構大変だったりもします。

何が面倒かっていうと毎日、情勢が変化することです。

社会環境や地域環境がよく変わる。自然災害とか震災などの影響もあります。また、人間の場合には複数のコミュニティが入り組んだ形になっていますので、それぞれに思惑や立場、欲もあります。

その「欲」とか「思惑」「こうあって欲しい」って欲求や願望が、それぞれに軋轢を生みますし、激しい争いになったりお互いに首を絞め合うことにもなります。

人間が一切の感情を捨て去れれば楽になれるんでしょうけどね(笑)。

人間は人間です。ロボットにはなれません。先に男として失ってはならないものもある、と延べたのはそういった感情が人として男として、何らかの職業とか立場にあり、家庭や職場を守る者として自然に備わる資質であり、本能だからでしょう。

感情があり、立場があり、思惑や欲するものがある。欲望と書けば悪い言葉に感じるかもしれませんが、広い意味では「欲求」つまり、人間が求め、欲しがり、望むものがゼロになってしまえば物事は何も始まらないし進まないでしょう。

人は求めるからこそ人です。羨み、嫉み、時には盗んででも手にしたいと考え、欲する(ほっする)からこそ発展してきた種族であり、他の動物とは異なる文化や芸術、コミュニティや科学を生んだのです。

そういった欲求、つまり「求めるもの」が複数あって様々に思惑とか立場もありますから、悩み事の種も尽きないということになりますね。

人だからこそ深い痛みはある

人は必ず死にます。それが自然の摂理。

それから抗えた人は人類誕生以降で一人も存在しません。老若男女、善人も悪人も金持ちも貧乏人もみんな死に至ります。それこそが絶対的な真理なのです。

そんなことは誰でもわかっています。

でも、親族や家族、仲間や友人、子供や恋人、愛する誰かが亡くなれば悲しいのです。

死なない人はいない。いつかは死に至る。明快なことです。そこには突発的な死もあれば犯罪や災害に巻き込まれるものもある。家族に看取られる幸せな死もあれば、遺体すら見つからない理不尽なものもある。

死は、それそのものが理不尽なもので唐突なものです。

誰しもなかなか覚悟もできないし、簡単には納得できないものです。

「死」は確実に訪れるもので、これまでに誰も逃れたことがないものなのに「まだ遠くにある」「私や私の家族にはまだまだ縁遠いものだ」と、誰もがどこかで思い込んでいるのでしょう。

それは身勝手でも傲慢でもなくてね。普通のことなんですよ。

まあ、そりゃそうでしょう。

毎日、死を意識したら生きているのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。怖いものですから・・・。

忘れるからこそ意欲も増すのです。死んだらどうしようだとか、死後の世界のことばかり考えていたら、勉強や仕事に励もうとは誰も思わなくなっちゃいますよ。

厳しい練習とか苦痛を伴う生活と向き合うより神様を拝むだけになる人が増えるでしょう。努力するより諦めてしまうと思います。

ギリギリまで遮断していて「死」を意識しないようになっています。それは人の持つ防衛本能かもしれません。

だからこそ突発的な犯罪や事故、震災や災害での肉親や知人の死に驚き、嘆き、痛みは増すのでしょう。準備とか心の余裕が無いから。縁遠いと思っていたものをいきなり目の前に突き付けられることになるから驚くのです。

人だからこそ深い痛みはある。

人間には大きな脳が備わっています。人間だけが記憶を遡れます。写真やビデオやこれまでの成長の記録や思いがある。その分だけ、苦しみや痛みも増すのです。

愛情が深かった分、故人への思いや記憶がたくさんある分だけ深く、長く苦しむこともあります。

人はそれでも生きてゆかねばならない

泣き猫 アイコン生きてゆくのはね。辛いんですよ。苦しいこともいっぱいある。

家族や親族の死とか、大きな震災の傷跡とか何らかの精神的なトラブルやトラウマを抱えてしまうと次の一歩を踏み出すのは大きな勇気が必要になります。

肉親や家族、まして自らが大切に育んできたお子さんを失った方なら尚更なんですよ。

例えば自分の両親が癌にかかって余命幾ばくもないとか、事故で失ってしまえば精神的に大きなダメージを受けます。本来は子供よりも親が先に亡くなるのが自然です。

いわば自然の摂理(せつり)なのですが、実際にそういったことに直面するとショックをまったく受けなかったり、涙も流さないという人はごく小数でしょう。

人であるからこそ感情があります。家族や仲間や恋人に感情移入する。感情移入するから失えば苦しいし悲しいのです。だからこそ人ですし、コミュニティで自分の居場所も見つかるのです。

本当はね・・・。

死んだほうが楽なんですよ。残されるよりは。

誰かを失うくらいなら一緒に死にたいとも思いますし、残していかないでとも思うでしょう。できれば「私が代わってやりたい」とも思うでしょうし、「何で俺のほうが生きてるんだ」とも思う。

震災や災害、犯罪の被害で誰かを亡くした場合、生き残って七転八倒して苦しんでいる遺族のほうが多いでしょう。

辛いのはね。それでも人は生きて行かなければならないことです。

腹も減るしね。飯も食わなきゃならない。寝床も必要ですし住む所とか集う場所も必要です。誰かと話し、何かを見て笑う必要だって出てきます。

全てを無視したり捨ててしまって、過去にのみ生きることはできません。誰でも同じですが、人は亡くなった瞬間に過去になってしまいます。思い出が新たに作られることはないのです。

誰かを失ったことはすぐには嚥下(えんか、飲み下すこと)はできない。自分の中で納得するというか、その衝撃を和らげたり遠ざけるだけでも膨大な努力と勇気、時間が必要です。

苦しいことに、それでも生きていかねばならない。

それが結局は残された他の家族や仲間、親族や周囲にいる人達のため、亡くなったご本人の意思や希望でもあるから。

生きる事に「意味」はあるのか?

太宰治 走れメロス 書籍 写真と、いった質問をたまに若い人がします(笑)。

自殺願望のある若い人とか結構います。太宰治(だざいおさむ)じゃないですけどね。有名な作家とか哲学者とか著名なタレントさんとかでも自ら死を選ぶ人がいます。

はっきり言いますけどね。

生きてることに、というか「生まれたことに」意味なんてのはあまりありません。

最初から「意味のある人生」なんてあるわけがない。

私はこのサイトで最初から言っていますが、人間の赤ん坊は白紙で生まれます。自分の足で立つことも歩くこともできない。野生動物なら簡単に死に至ります。

そんな動物は人間くらいのものです。

だからこそ「周囲が手助けをする」必要があります。

生まれた瞬間に意味が生じるのではなく、周囲の手助けを得て自立してゆく姿の中に「ご本人や家族、周囲が」意味として何か?を見いだしてゆくものです。

生き様とか「死」に、意味を付けるのは自分です。自分自身で「何にこだわり、何を行なって何を大切にするのか?」で徐々に意味ができます。

色付けも味付けも自分で行なう必要があります。途中の過程も含めて、それがその人の人格や人柄にも通じることになり、「意味がある」ことに思えるようになるのかも。

他人からみてどんなにくだらないものであっても、真剣に取り組んだり諦めなかった場合には違います。その人の生き様や人柄をよく知るご家族や友人、恋人やお子さんにとっても違うかもしれない。

これも私の口癖の一つですが、人間なんて放っておいてもいずれ死にます。死から逃れた人なんてのはいないんですから・・・。

「死にたい」とか「生きる意味が見つからない」などと繰り返す前に、自分にできることややるべきことを探しましょうね。

いつかは死ぬ命だからこそ、大切に育むのです。いつかは失われる命であり個人だからこそ、大切な「思い」を残すべきだし、自らの努力や目標、家族や友人、仕事を大事にする。

誰かの為に、何かのために懸命に必死になって生きるなら、そこに意味はあります。必ず誰かから、どこかから求められる価値観が存在します。

「私は誰からも愛されない」とか「私のことをわかってくれない!」「私は孤独だ」などとのたまう連中を見る度に私はこう思います。

「じゃあ、あんたは誰かのために何かをやってるのか?」と。

生きる意味を聞いてくる連中にはこの手合が結構います。

自分が家族や仲間、恋人や部下、仕事や周囲をないがしろにしていて孤独だも何もないでしょう。生きる意味を無くしているのはあなたご自身であり、他人の責任じゃありませんよ。

自分が求めるのと同じように「誰かに」与える側になっていたら、生きる意味を誰かに問う必要すらなくなります。

放っておいたって誰かにきっと「あなたがいてくれてよかった」と言ってもらえるから。

生きてゆくのに必要なのは「実感」

WALK 四角 アイコンマスコミから垂れ流される情報だけで不安になって「この世の終わりだ」とか「震災や原発でみんな死んでしまうんだ!」と大騒ぎする連中が、私はあまり好きではありません。

終末思想や変な妄想に駆られてメールを送ってくる例もたまにありましたけどね。

今も被災地で必死で働いていたり、耐えて暮らしている人達だっています。

変な終末思想は2000年も前から存在してますよ。驚くことにイエス・キリストが生誕したと言われる時代とか、ブッダやマホメットの時代にもそういった記述はあります。

人類は種として誕生した数万年、有史以来数千年の間に様々な災害や震災、大きな戦乱に何度も何度も遭遇していますが、それでも、したたかに生きています。

私自身も震災の経験者です。神戸の街も10数年かけてゆっくりと復興しました。今も家族を亡くした土地を処分する気にもなれず、駐車場や空き地になったままの場所もあります。それでもそういった地域は小数になってきました。

家族や仲間を失い、それでも復興の為に耐えている人達がいます。

不安感から変な妄想に走ったり、おかしな書き込みとかtwitterで右往左往することはかえって復興の妨げになりますし、そこで生活したり支援したり捜索している方々に失礼です。

現状の把握ができないのに大騒ぎをするのもおかしいですし、安易にパニックになったり風評を垂れ流すのはよくない。現地で必死で生活していたり、捜索に参加している方達や肉親を探してもいる方もいるのに安易に「がんばれ」とだけ言うわけにもいかない。

そう考えるから、これまでしばらく更新は控えてきたんですけどね。

この場を借り、捜索や遺体の回収、災害支援のために現地入りしている全ての方々、レスキューの方々や自衛隊員、ならびに警察関係者の方、ボランティアの方々に敬意を表します。焚き出しや支援物資を届けている芸能人や一般人、義援金を寄付している方々にも敬意を表します。

ご家族や仲間を亡くされた方々には哀悼の意を表します。

私も含めてですが、生きている、生きてゆく、ってこの単純なことが結構難しくてですね・・・。時々見失うこともあります。起きて稼いで食って寝る、ってことが難しい。

時には弱気になって「生きている意味って何?」って聞きたくなることもあるでしょう。実社会では日々の生活に追われたり誰かに「必要とされてる」って実感が湧き難かったりもしますから。

若い皆さんは変なことにクヨクヨ悩むくらいなら被災地入りしてボランティアでもしましょうね。少なくとも「誰かに必要とされてる」実感くらいは掴めるかもしれませんし。

ACの広告コマーシャルではないですけどね。

誰かに「ありがとう」って言いましょう。生きてるうちに。

好きだでもいいし、愛してるでもいいし、感謝の念とか尊敬の気持ちとか愛情を伝えることです。

言葉は人間のみに備わった優れた資質です。暴言を吐くとか誰かを罵ったり詰る言葉ではなく、温かい言葉や感謝の言葉で誰かとの繋がりを保つこと。

そうすれば一人きりにはなりません。あなたが寂しかったり孤独に悩むなら、あなたの周囲にも同じような温かさや優しさに飢えている人はいるのです。励まし合う言葉や愛情で誰かと繋がるなら、そこに喜びや嬉しさもあります。

「生きている実感」ってそういうものですよ。

そういった些細な繋がりが、日々起こってくる嫌なトラブルや悩み事と向き合う力となったり、自身の心を守る楯(たて)となるのです。

それをお忘れなきように・・・。

これが東日本大震災以後の始めての更新になりますが、自戒と励まし、現地で働く人への敬意と亡くなった方々への追悼の意味を込めて。

ここに綴ります。

2011年05月19日

谷口信行

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