昔、武家社会や吉原(色街、傾城街)で使われた表現
世良公則(&ツイスト)の昔の歌に、こんな詩があります。
「愛想尽かしの言葉がダメなアンタに似合いと」いつもお前は笑うのさ♪
愛想尽かし(あいそづかし)と読みます。
古い表現なので若い世代にはわからないと思いますが、この「愛想尽かし」というのがよく考えられたシステムというか、先人の素晴らしい知恵なので紹介しておきたいと思います。
吉原という地名がついたのは葦が生え茂る湿地が語源とも、この地の管理を任された「オヤジ」が東海道の宿場、吉原宿の出身だからとも言われていますが諸説あってはっきりとはしません。
庄司甚右衛門(しょうじ・じんうえもん)という小田原生まれで武家出身(一説には忍者出身だったとの説もあります)が幕府に「傾城街(遊廓)を運営したい」と願い出たことがスタートとなります。
東海道の宿場町で天下統一後の徳川家康を待ち受け、女性を使って接待して傾城街の認可を受けたとか逸話が幾つか残されていますが定かではありません。
遊廓や遊女屋では様々な情報が飛び交います。昔から情報収集には寝物語との例えもありますが、スパイ活動には遊廓の運営がもってこいだったかもしれないですね。
今も中国や北朝鮮ではその手口を盛んに使いますが、元は日本でも行っていました。
吉原はその後、江戸の街の治安維持や無宿者の管理に絶大な効果を持ちます。
忍者だったかどうかはわかりませんが、庄司甚右衛門(しょうじ・じんうえもん)はただの商人ではなく幕閣や江戸幕府の高官に何らかの強力なコネを持っていたことは間違いないでしょうね。
でなければ傾城街や遊女街、いわゆる売春に関する膨大な利権を一手に引き受けることはかなわなかったでしょう。まして吉原は江戸幕府が無くなった明治維新後まで続いたのです。途中で誰かに奪いといられたり潰されたりしなかったということは、よほど強い繋がりや利点がなければなりません。
賂(まいない、わいろ)なども役人に行っていた形跡はあります。
届け出が受け入れられた背景
庄司甚右衛門(しょうじ・じんうえもん)が傾城街を最初に願い出たのは慶長10年(西暦1605年)です。徳川秀忠が二代将軍に就任、家康は隠居して大御所となっていました。
江戸城と城下は急ピッチで整えられておりまだ完成しておりません。武家の社会が固まってしまい戦乱や戦場(いくさば)で男が身を立てる時代は急速に過ぎ去ろうとしています。
吉原のスタートは江戸の町が大幅に変更になり住人が強制的に移住させられた時期とも重なります。街割り(区画整理)が行われるのと同時に遊女を雇って商売していた他の仲間を取りまとめ、代表者として「傾城街」として一ヶ所に設置することを申し出たのです。
戦乱が納まれば新しい統治が始まります。もう武士同士の戦いは納まりつつあったのですから・・・。結果として商売も様変わりします。商人や遊廓街の整理や淘汰が始まり、いずれば幕府からおとがめを受けたり必要がないとして捕縛や取り壊しが行われるかもしれません。
各地で諜報活動を行ってきた忍者や草の者も、急速に力を失い職場を無くします。
鋭敏な感覚でそれを感じ取った庄司甚右衛門(しょうじ・じんうえもん)は先手を打って、世が完全に治まる前に、先に遊女宿を取りまとめて幕府に対して協力を申し入れます。
なかなか認可が降りないので更に7年後の慶長17年(西暦1612年)にも申請します。
「居続け(連泊)は行わせない」「どこかで盗賊が浚ってきた娘を働かせない」「怪しげな浪人、悪党や脱藩したり無宿者がいたら通報する」ことを誓い、再び傾城街の運営管理を願い出ることになります。
傾城街の運営が治安の維持管理、流れ者や無宿者、無法者を摘発したり風紀の乱れを整えることに役立つことを力説しながら長く辛抱強く待ちます。
時代は慶長から元和(げんな)に移ります。その間に豊臣家との最後の戦い、大坂冬の陣、夏の陣が起こっています。
戦国の世が納まり、幕府としてはこれからは内政にも心を砕かねばなりません。豊臣家との最終戦争も終わり徳川家が盤石の体制を築くには、江戸の街を騒乱から守ると同時に「ガス抜き」というか一般人や武家の不満が一気に高まらないように配慮する必要がありました。
と同時に監視体制を強化するために傾城街を設置、利用する方向に動きます。
この部分は以前に述べた「日本において宗教法人が優遇される理由」にも重なってきます。
売春のみ、とは微妙に異なる部分
江戸時代には湯屋女、茶屋女と言いましたが、いわゆる身体を売る女性はかなりの数がいたといわれています。もっともそれは人口の多い大都市のみで地方にはそういったシステムは整っていませんでしたが、湯治場とかお参りに行く際にやはり女性を買う人はいた模様です。
千と千尋の神隠し、などで表現されている「湯屋」にはそのようなシステムがあり、職業として女性が大勢働いていたとの記述もあります。
吉原においてはそういったただ単純に「身体を売る」女性を扱うシステムではなく、読み書きが出来たり作法を知っていたり、会話や芸事、詩や楽器を売り物にして「安売り」しない形式へと変更したようですね。
身体を売るだけの女性は一度、やっただけで客が飽きてしまうからでしょうね。もったいを付けるというか付加価値を高めて客の居心地とか、遊び心や虚栄心をくするぐように変更していったのでしょう。
大門を潜ると身分の差は関係ありません。どんな大店だろうと身分の高い武士だろうと差が無くなるのです。もちろん、お金持ちなら大盤振る舞いも可能ですから派手な遊びも出来ますが、金にあかして身勝手な行動をとると「無粋だ」として周囲から蔑まれ(さげすまれ)ます。
大店の旦那、大身の大名や旗本が何ヶ月も通った揚げ句に結局は振られる、という珍事も吉原では時折起こっています。
それを「粋」(いき)と称して売り物にしたんですね(笑)。
遊女、遊廓であっても心意気がある。それを無粋に踏みにじろうとするものは「遊びを知らないダサいおっさんで、流行りを知らない田舎者、半端者」として街全体で笑いものにしたのです。
吉原にいる時は身分など関係ない形になります。肩書きや家柄で威張るのではなく、自分の身一つで花魁(おいらん)を口説き落として見せよ、が基本システムになっています。
懸命に努力して何年間も働いてお金を貯めて、花魁に会いに来た染め物屋の職人がいます。二人は恋仲に落ち、花魁が年期が開けた時に嫁として迎え入れて職人の故郷に仲良く一緒に帰っていった話も残されています。
愛想尽かしが必要になったのは・・・
傾城街(けいせいまち)とは「入れ揚げると身代、家が傾く」との意味もあります。中国の楊貴妃(ようきひ)の例もありますが、美人に治政者とか施政者、王様が入れ揚げると国が傾いた実例もあるのです。
傾城街の意味は「国や城が傾きかねない美女を取り揃えた街だよ」という宣伝の意味もあったようで・・・。一応、旗本とか大名は吉原への出入り(発令は元禄6年)に禁止されたのですが、無視して出かける者が多数いました。
それはね。吉原としても困るのです。行き過ぎれば幕府に睨まれますから。
情報を得たい相手の出入りは許したかもしれないですね。ただし、本気で大名や旗本の子息が女性に入れ揚げてしまってトラブルを招くのは幕府としても歓迎はしないでしょう。
旗本の子息は、下手な大名よりも裕福であったりもしました。徳川家の天下統一に尽力した者の子孫が江戸の街に残されて護衛役を旗本として貰っているわけですから。大名とは異なって参勤交代や城の普請などの負担がない分だけ経済的には余裕があったとも言われます。
時間は余ってますからね(笑)。戦争は無くなっていますし。裕福な旗本にはやることが少ない。お役につけるのは長男(跡継ぎ)だけです。
部屋住みの三男坊と揶揄されたのは、それだけ暇を持て余したからでしょうね。次男は長男が不慮の事故や病気で亡くなった際のスペアとして多少は大切にされましたが、三男や四男は可能性が少なく、養子に出されたりしました。
吉原に通い詰めた有名人としては若き頃の水戸光圀がいます。
大名とか旗本の息子が通い詰めているとの噂が高まると処罰が下ります。幕府としては今の体制を整えるための功労者やその子孫を「厳しく」罰したくはないのです。反発も強まりますから。
その藩の宿老(しゅくろう、おとな、ともよびます)とか家臣達は更に大変ですよ。下手をすればお取り潰しです。明日から路頭に迷うかもしれない。自分の上司になる若様が女に走った揚げ句、お家が無くなれば再就職どころじゃありません。
大店の若旦那とか大身(たいしん)の武士とか身分のある人が色事に走ってしまえば、家族や家臣は真っ青ですよ。ですので吉原の店に「何とかしてくれ!」と泣きつくことになります。
ところが吉原や遊廓も客商売ですからね。入り口を閉鎖するわけにも参りません。昨日まで普通に出入りしていた客を入り口で強引に追い返せば角が立つでしょう。
ましてそこにはお侍さんも含まれます。面子を潰されたと考えた武士はいきなり腰の物(刀)を抜くかもしれません。吉原においても武士が入り口(大門)で刀を取り上げられることは無かったのですから。
そこで必要となるのが「愛想尽かし」なんですよね。
相手への深い愛情もあれば、トラブル予防の意味もあった
浄瑠璃とか歌舞伎においても「愛想尽かし」の情景は時折出てきます。
花魁とか遊女にもね。情はあります。嫌な客は断ってもいい、という建前で整えられた吉原においては、遊女側も相手を「選んで」いたことになります。
大金を持っていることばかりが花魁や遊女と過ごせる条件ではなく、多少は女性側の意思も反映されたのです。
いくら遊女であっても毎回、通ってくれて優しい言葉をかけてくれたり、大枚(大金)をはたいて通い詰めてくれる客、しかも身体の関係が何度もあった相手をいきなり大嫌いになるというのはあり得ませんよ。
売り上げが落ちたり、指名がまったくない遊女や花魁は徐々に格下扱いを受けます。客の数とか人気が自分の生活を支え居心地を左右するのですから、遊女側にも上等客は大切にしたいとの想いはあります。
吉原においては金を払って男が強引に女を買って、好き勝手に扱ったとか奴隷にしていたのとは微妙に異なるのです。遊女側が拒否する権利もありましたし、他の客が来ているからと何度出かけていっても居留守を使われるケースすらありました。
若様とかお坊ちゃんがいつものように出かけてゆくとね。花魁とか店の雰囲気が微妙に違う。理由ははっきりとはわからない。わかりませんが空気というか雰囲気が重い。妙に居心地が悪くなります。
花魁がなかなか出てこない。店の者の連絡も悪い。すぐに奥には案内されず、待たされる時間が多くなる。雑談にもなぜか皆が快くは答えてくれない。せっかく愛しい女に会いに来たのに散々です。
待たされはしますが花魁は必ず会ってくれます。会ってくれますが二人きりが少ない。店主とか店の顔役が一緒にいたり、隣の部屋に誰かが控えるようになります。花魁の態度も冷たいものになっており、いつものような親密さがない。
場合によってははっきりと「あんたには愛想が尽きました」と言われます。詳しい理由は何も述べません。縁を切りたい場合には「愛想が尽きた」と遊女側が言うのが決まりごとになっていた模様です。
花魁と店が冷たいのは「家臣」とか「幕府」とか、大店の親族から泣きが入っているからで「申し訳ないが、つれなくしてくれ」(愛想尽かしをしてくれ)と頼み込まれているからなんですよ。
愛する旦那(お客さん)や男を守るためにあえて、つれない態度をとらなくてはならないことも、吉原という場所では立場上あり得たわけです。
幕府に睨まれた時点でお終いなんですよ。よほどの大身とかお取り潰しが難しい大名(幕府直轄である水戸藩など)なら多少は好き勝手に出来たと思いますが、小藩ならひとたまりもありません。
相手を思うからこそ「ここら辺が潮時」「もうウチに通うのは辞めてもらわなければ」になります。実際に大名や旗本の中には、吉原通いを理由にお取り潰しになった者もいます。
それをよくわかっている店と遊女側は必死の思いで「愛想尽かし」を試みているわけです。いくら特例が認められている吉原だからといっても、相手は刃物を持っているお侍です。危険もありますし逆上だってあり得る。勇気が必要だったでしょうね。
相手とはうまく別れましょう
ごく初期の頃、私がこのホームページの運営を開始した頃に書かれた文章があります。
今回はこのコーナーの補足です。検索結果を眺めていると、最近は異性とかパートナーとの別れ方に悩んでいる方が結構いるようですね。
「相手とはうまく別れましょう」のコーナーに書かれている「畳の目を数えるようにして別れろ」は、言い換えるならば「うまく愛想を尽かしてやりなさい」になります。
相手を思うからこその別れもあります。
私にしても今も連絡とりたい相手はいますよ。以前に付き合っていて好きだった女性なら尚更です。困っていると聞けば駆け出しそうになりますし、自分の多くを投げ打ってでも何とかしてあげたい相手もいます。
でも、それでは優しさにならない。
私が今も独身で結婚しておらず、相手に添い遂げてあげたり今後も側にいてあげれるなら話は別でしょう。自分が結婚しており側にいてやれないなら、歳を重ねた現在だからこそ我慢したり会わない勇気も必要になります。安易に哀れみをかけたり、面倒を見ることばかりが愛情ではないと思います。
時には「あなたには失望した」とか「見損なった」と罵られるくらいでいいのです。それでその人は次の人生を次のパートナーと歩いてゆく道筋だって出来るのですから・・・。
はっきりしないのがもっとも良くないでしょう。
いつまでも綺麗事を言って中途半端になるなら別れになりませんよ。ズルズルといつまでも続きます。抜き差しならない年齢になってしまった時にもっとも辛い立場に追いやられるのは、関係を引きずってしまったその女性になってしまうかもしれません。
嫌われてあげること、罵られてあげること、別れを言い出したことで快く思われないことも含めて、それは「付き合った男が背負うべき責任ではないのか?」と私は思っています。
女性の方も同じですよ。
吉原の花魁は売り上げや指名が落ちれば、店から追い出されることもありました。格下の店で身体を売ることになったり、栄養状態が悪くなれば労咳(結核)を病んで野垂れ死にしてしまうことすらありました。
それでも、時に「愛想尽かし」を行ったのは相手を思えばこそです。と同時に幕府とか時の権力者に睨まれ、店や自分自身が危うくなるのを逃れる意味があります。
愛想尽かしは「時間をかけて」整えられたシステム
吉原のシステムは最初から固まっていたわけではありません。
徳川が栄えた数百年の間、徳川幕府の体制と共に歩み、明治期になって滅びてゆきます。ですのでこういった「愛想尽かし」にしても最初から定まっていたわけではないのですよ。
「愛想尽かし」というシステムは長い年月の中で徐々に整えられていったものでしょう。
治外法権というか一種の自治権を与えられていた吉原ではありますが、刃傷沙汰とか心中とかお侍が刃物を持ち出して花魁や遊女を刺したとか店の者と斬り合いになった話も多数、残されています。
安易に追いつめれば人はキレます。
廓(くるわ)の中で無理心中でもされてしまえば、店も大損です。幕府とか他の店への体面もあります。年季明け(24歳前後)を楽しみにしている花魁も死ぬのは嫌かも知れないですね。できれば穏便にご退場を願うためにそういったシステムも整っていったのでしょう。
別れとか愛想尽かしにもある程度の段階とか手順があってですね。いきなり前日とはまったく違う態度をとれとか相手を「遮断しろ!」って意味ではないのです。
危険ですから。
どんなに藩の上役とか宿老(しゅくろう、おとな)から頼まれても日数は多少、かけます。いきなり翌日から出入り禁止にするわけではないのです。
現代でわかりやすい例でいえば「ネットの掲示板」などが似たようなシステムですね(笑)。
何らかの荒し行為や不法行為や宣伝を行ったり、誰かの中傷を繰り返す人物がいます。それをいきなり出入り禁止にすれば、荒しは止むどころか増えたりもします。やってる行為は間違いなくその人が悪いのですが、だからといっていきなり遮断に動けば恨みを買って極端な行動に出る者もいます。
なので「ちょっと」緩めるのです。全部を締めつけてしまうのではなく書き込み出来る場所とか抗議できる場所を残す。その上でその人物が「態度を改めるなら」制限や入場解除も視野に入れます。
本当はそんな面倒なことやりたいわけないのですけどね。荒らしたり宣伝を書き込む奴が悪いに決まっているのですから・・・。ですが、そこを厳しくしすぎると他の良心的な利用者に悪影響もありますし身勝手な報復を働く者もいます。
これなども過去の失敗例や経験から徐々に固められたシステムでしょう。
吉原では「愛想尽かし」と決まった瞬間から対象者(旗本の跡継ぎや大名)と二人きりにはしていません。出来うる限り、隣室には誰かが控えていますし顔役なり店主なりが同席します。二人きりになる瞬間はありますが、油断はしないように気はつけていますし、いきなり翌日から「もう会わない」にはしていません。
要するにこれは「畳みの目」を数えることになります。
意図的に二人の間に時間とか衝立(ついたて)を作る。全てを一気に遮断することはしない。徐々に距離を離すのです。常に誰かを間に挟むようにしていきなり、相手の感情が高ぶるのを抑えるようにしているのです。
最後に現代風にアレンジとアドバイスを・・・
現代においてもこれが大事。別れ話を切り出す時は誰かの同席を頼みましょう。ただし、同席といっても同じテーブルについてもらう必要はありません。
「なんだその男は!」「新しい男か!」と言い出して逆上する可能性が高いです。親族や身内も危険です。交際に反対していると知っている相手では感情を逆なでしてしまうかもしれません。
ですので、職場の仲間とか上司とか以前から「両方が知っている知人」「得意先」などが望ましいでしょう。中立に見える相手がいいのです。
吉原で言えばその店の主人、「オヤジ」と呼ばれた顔役に当たります。利益を得ている店の店主が大金を支払ってくれている客を追い返したいわけはない。だからこそ同席します。
大切なことは「別れ話」そのものには立会人や「オヤジ」であっても関与させないことです。
立会人には「大切な話があるから離れていて」と頼んで、テーブルから離れた位置に座っていてもらいましょう。話し声は聞こえないが視野には十分に入ることが重要です。
揉めた時にはすぐに助けにこれる距離が最適です。遊廓であれば襖や障子の向こうで、何かあったら駆け込んでこれる場所が「愛想尽かし」をする際の控室になっていました。
対象者に別れそのものは「自分の意思」で進んでいることを自覚させます。立会人や仲介人が変に口を挟むと「こいつが二人の仲を邪魔しているんだ!」と憎悪を増幅させます。話し合いの邪魔はしないことが大切です。
もちろん、暴力を振るう場合には飛び出していって(できれば複数の人間で)強引にでも押さえつける必要はあるんですけどね。廓でも多数を用意していました。そこは毅然とした対応が求められます。
別れ話のもつれで家族や親を刺し殺すような事件があるのは、ここの部分の対応の誤解や失敗です。
徐々にマイナスのエネルギーとか圧力を抜くこと。恋愛沙汰っていうのは強力なパワーがあり、昔から国を傾けたり家(大名や旗本)を滅ぼしたり、相手を殺すような事例がたくさんあることは忘れないでください。
たまにいますけどね。他に好きな人が出来たからといってメールアドレスや携帯番号をかえてしまい、いきなり連絡を絶つ人が・・・。それはもっとも危険な行為です。相手には事情がわかりませんから探し回ることになりますし、逆上させるきっかけや原因となります。
別れの意思は明確にすること。できれば理由や事情もはっきりと伝えること。どこが嫌になったのか、何が辛かったのかを伝えないといけません。誰か(新しい彼とか彼女、親族)とか、何かの意思ではなく自分自身の意思で「新しい選択」(別れ)をしたこと。
それを繰り返して別れる相手に伝えてください。
伝える時は二人きりにならないこと。誰かの「仲介」ではなく、「立ち合い」を求めること。立会人が感情的になったり一方に肩入れして怒鳴ったり、相手に決断(別れ)を迫らないこと。
その上で「徐々に」面談の回数を減らすとか連絡の回数を減らしていって、最後に「遮断」です。いきなり連絡がとれないとか、相手との約束の日時や場所にいかなくなる行為は辞めたほうがいいです。
自宅周辺での待ち伏せや職場の回りをうろつくようになり、相手の行動パターンの予測がつかなくなって尚更、危険になります。
一方的な「遮断」で片が付くなら吉原の遊女は皆、そうやったでしょうね。恨みを買えば報復を受けます。何かのきっかけで蓄積されたマイナスのエネルギーは時間の経過で減ることはなく、むしろ強まることもあります。大名やお目見え以上(将軍の顔が見られた)の旗本の恨みを買ったら大変です。
現代においては職場の上司との不倫みたいなものですね。
せっかくの出会いで育まれた関係です。切るといっても一時は好きだった人でしょう。多少は段階を踏んで徐々に離れてあげることが、結局はお互いのためになってトラブルを防止できます。
愛想を尽かす、というのは元々は悪い意味ではなくてですね。愛している想いを尽かす、離れるとの意味を含みます。
吉原で愛想尽かしをされた旗本や大名、大店の息子が諦めて帰ることが多かったのは裏に「自分に対する愛情」や家臣や実家からの懇願があったこと、幕府に知れて役職を失う危険が迫っていることを、冷静になれば徐々に察知するからでしょう。
誰かとの別れを望む場合にはトラブルを予防するため、上手に「愛想」を尽かしてあげてください。
► 相手とは上手く別れましょう!?(関連事項)
2010年10月02日
谷口信行