女性心理、花束の心理学

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贈っているのはモノではなくて

自分自身との対比、比較

プレゼント ボックス アイコン私の推測はこうです。

私の持っている花束が場違いな上に巨大であったため目立ったのです。

それを女性側が「自分自身の」立場や環境に当てはめてしまったために、起った心理反応なのではないか? と推測しました。

普通のサイズの花束であればだれも驚きませんし注目しませんよ。小さなサイズの花束ならどんな女性も何かのきっかけで貰える可能性もありますし、自分で購入する機会もあり得ます。

ただし今回の花束は巨大です。見た瞬間に高いものだとの印象を与えます。

自分では「貰いにくい」との感情もある。それが自然に女性側の「視線を下げる」という心理効果を生んだのではないでしょうか?

こういった反応は小さな花束を持って乗った時には得られません。日本において男性が贈り物として花束を贈る習慣が定着しているとは思いませんが、ゼロではないでしょう。

問題はサイズだと思います。

事実、私が少し小さめの花束などを持って電車に乗った時には同じような反応はみられませんでした。今回のような「巨大な花束」を持った時だけが特別だったのです(笑)。

普通サイズである場合はどちらかというと好意的に捉えられる場合が多いのです。周囲の注目を集めたり、女性の視線を逸らしたりはしませんよ。

お祝い事とか結婚式でもそういったことはあるでしょうから・・・。

プレゼントの難しいところは自分では行えないことです。

相手からの「ギフト」つまり贈り物ですから。

贈り物は「誰かから貰う」必要があります。大きな花束が欲しければ自分で買うことができます。できますが、それでは意味がない。自分で買った時点でプレゼントとか贈り物ではなくなりますから。

プレゼントは他者の思惑や環境、他人の気持ちや経済状況に左右されるのです。自分以外の「誰か?」の思惑や感情が必要になる分だけ「望むものを贈られる」のが難しい。

その分、不確定要素が加わってしまいます。

すると不思議なものでね。

「自分が悪い訳でもないのに」あんな大きな花束は「きっと私は貰えない」といった後ろ向きの感情にすり変わり易いのではないでしょうか?

「大きな花束を私にプレゼントして頂戴」とお願いして贈ってもらうこともできるでしょう。ですが、女性であれば誰かに自然に贈ってもらいたいと願う物ではないでしょうか?

それが言い出せない分だけ、寂しさや羨ましさにも繋がりがちです。

まあ、そういった反応はご本人の責任ではありませんし、意図的であったりわざとではありません。ごく自然なことです。羨む気持ちってのは誰にだってありますよ?

おそらくですが、私も無意識にそのような反応を示している場合もあるのでしょう。私よりかっこいいとか、年収がある男性が持っている持ち物や態度、雰囲気を見て気後れしたり飲まれてしまう可能性はあります。

極端に大きい花束だと日常生活ではあまりお目にかかりません。それをスーツ姿の男性が抱えて歩くとなると、恋人の誕生日に贈るかプロポーズに行くかくらいしかないでしょうね(笑)。

まあ単なる卒業式だったのですが・・・。医療系の学校に通っていた人だったので一般的な卒業シーズンとは数週間若干、ズレていました。

これも推測に過ぎませんが、私がこれからプロポーズに行くように映ったのかもしれないですね。

日本の男性はシャイですからそのような行動は珍しいのです。

女性からすれば、自分がそれくらいの大きさの花束を貰ったことがないことに「無意識に」引け目を感じて心理反応が起きたのではないでしょうか?

無意識に起こる心理反応

スポーツカー アイコン同じような心理反応の例を男性側から捉えると、とても高そうな高級外車(1千万円以上)やスポーツカーに乗った人に対してあまり好意的に捉えない場合があります。

「あんなスポーツカーに乗りやがって!」とか「あんな高級車に乗ってる奴はきっと悪いことをやってる奴に違いない!」とか、散々悪口を言う例がありますよ(笑)。

なぜか男性には車に関してそういった傾向が強いようですね。

高級車、特にスポーツカーにおいては住宅とかマンションに比べて嗜好品や贅沢品といったイメージが強いせいか、必要以上にというか異様に感情を高ぶらせる人もいます。

これもおそらく、心理的な圧迫感があるからでしょうね。昔から「高嶺の花」という諺もありますが、手の届かない場所にある花とか高額な商品、自分が手が届かないとか「誰からも贈られない」商品には腹が立つのでしょう。

自分の努力で「手に入るかどうか?」で、相手の反応は変わってくるのです。

自分が無理をすれば購入できそうなくらいの価格、例えば2、300万くらいまでの車でそこまで感情を高ぶらせるケースは殆どありませんね。

自分でも頑張ったら手の届きそうな車に颯爽と乗っている人を見ると「カッコイイな〜!」と言ったストレートな感情表現を用いる男性は多くなります。

ある種の憧れ、羨望はありますが現実不可能な夢ではありませんから。

圧迫感は「手を延ばしてもとれない」位置にある物や見えていながら届かない「立場」とか、環境や人(容姿やスタイルも含む)に対して働きます。

一般的に「手が届く」物に関しては共感を覚えるか、自分にとって「必要か必要でないか?」の二者択一しかありません。

「欲しい」と感じる物が、自分に「手に入らない」ことを認めるのは結構、苦しいんですよ(笑)。どんな人でも現実とか自分の欲望とストレートに向き合うのは辛いですし難しいでしょう。

それを認めてしまうことは、自分自身にとって精神的な苦痛を生み、敗北感、圧迫感を生み出す原因となります。

ですから現実の自分の生活において「手にはいらない」とか「極端に入りにくい」ものは徹底した否定や排除に廻ります。それも「意識して」ではなく無意識の領域が勝手に否定に動くのです。

そうすることで自分の気持ちや立場、心の一部が守られるからでしょうね。

キツネは何が言いたかった?

イソップのお話 すっぱいぶどうの話 写真童話などで、有名な「キツネと葡萄」の話があります。

ある日キツネが歩いていると、たわわに実った葡萄が目に入ります。あまりに見事な葡萄が沢山なっているのを見たキツネは、その葡萄を一口でも食べたいとその葡萄の生えている木の下でピョンピョンと跳ねて懸命に噛みつこうとします。

ところがどうしても届きません。あともう少し、もうちょっとといった所で葡萄の房にはどうしても届くことができないのです。

何度も何度も飛びついてどうしても手に入れることができなくて、キツネはクタクタになってしまいました。

散々、飛びついて口にすることのできなかったキツネはやがて諦めてこう毒づきます。

「フン、あんな葡萄なんか、きっと酸っぱくて食べれないに違いないさ」

そういまいましそうにつぶやくと、去っていってしまいました。

今ではネットでも有名ですよね(笑)。これは酸っぱい葡萄といって私が1998年にネットで紹介するまではあまり知られていないお話でした。

イソップ物語とかグリム童話とか、北欧神話やギリシャ神話は昔、図書館でさんざん読みましたので。ネット検索が容易になるまでは知らないというか、忘れてしまう人も多かったんですよ。

男性はその物語に登場するキツネのように直接的な表現をしますが、女性の場合は少々複雑です。

視線では「無意識」に花束を追ってしまいますが、その持ち主と目が合いそうになると目を逸らします。

大きな花束を持って電車に乗っている人に、朗らかに笑いかける女性も少ないでしょうが、嫌そうに顔をしかめる人も少ない。何となく後ろめたい感じで「目を伏せる」反応が得られるのです。

それはやはり無意識に自分と比較するのでしょう。

要するに「そのサイズの花束を実際に自分が貰えるかどうか?」の対比が起ってしまい、目線を伏せる反応が得られるのではないでしょうか?