学級崩壊について

スポンサーリンク
子供への接し方による心理変化

締め付ければそれですみますか?

本題ですが、あちこちで学級崩壊とかいじめが叫ばれています。

子供の頃から我慢とかなぜ教室で暴れてはいけないか、集団生活の意味とか「いじめがなぜいけないか?」などの意味を教えてもらわなかった子供が、いきなり規律正しく暮らせる筈がないでしょう。

子供の頃、兄弟や祖父、祖母のいないままに育った子供達も多いのですから・・・。核家族化が進んだと同時に、社会全体や大人が「子供たち」に割く時間が明確に減っているのです。

忙しかったりね。仕事とか残業もある。生活を支えるために共働きの家庭も多いですし、教育費も膨大です。我が子にきちんと教育を施し、いい学校に行かせるために頑張れば「子供と過ごす時間が減ってしまう」というジレンマを抱えています。

親から叱られたり、理由を教えてもらわなかった子供が、大人(先生)のいいなりになる筈ありません。まして最近は人権問題がうるさくなったおかげで、大声で叱ったり叩く事も禁じられています。

先生の優しい言葉だけ急に大人しくなりますか?

子供が暴れて授業にならないのなら懲罰や防犯カメラのような監視体勢を強めれば何とかなる、と思い込んでいる父兄や教育関係者が多いようですが・・・。

事はそう簡単ではありません。

なぜならば事勿れ(ことなかれ)主義で、「卒業さえしてくれればそれでいい」とか「勉強さえすればいいんだ」といった感覚を親や教職員、学校関係者や大人たちが持ってしまっているからです。

我が子でもない子供たちのために職を投げ打つとか真摯に行動する学校の先生なんて。近年じゃ絶滅種ですよ。最近じゃ漫画の中にくらいしか存在しません。モンスターペアレントも表面化していますが。人権を盾にとって暴れる父兄や保護者が現れたら。

波風を立てずに自分の任期中だけ、平穏無事に過ごせればいいと考える人達も増えてしまいます。

教室で暴れたり、誰かを虐めてもどこからも注意を受けない。「なぜ、それがいけないか?」を一緒に考えたり叱ってくれる大人や枠組みが減った結果、こういった問題は持ち上がってきたのですから・・・。半端に防犯カメラや監視体制を強化したって隠れて繰り返しますよ。

昔のようにガツンッと殴る教師なんていない。理由の如何を問わず「暴力を振るう教師なんて許さない」といって訴訟になります。懲罰や罰則がなく、未成年だからと無条件で庇われていることを当のいじめっ子、悪質な行為を行う連中が十分に把握しています。

なのにどーやって止めるんですか? 少年、未成年者用の刑務所でも作って放り込みますか?

「やってはいけない」理由を教わってないのだから、それに従う必要もない。

「es」実験結果と同じですよ。「大人が見てみぬフリ」とか子供たちを放置してきた結果、そうなっているんですから・・・。修正には多大な時間がかかります。

ホームページを持った初期の頃(1997年にホームページは公開開始)から、私はずっと同じことしか言っていません。

「何が正しいか?」「何が間違っているか?」を絶対的な存在(先生や親、広い意味では大人)が「子供達に押し付ける」必要はありません。本来なら大人が神のように振る舞う必要はないのです。

ひとりひとりで、自分達にできることを

子供 アイコン「なぜ、それが間違っているのか?」「どうすればいいのか?」を一緒に考えたり悩んだりしてくれる役割の大人がいるのですよ。それもできれば子供が小さくて価値観の固まっていない頃に。

求められているのは「接してくれる大人で、一緒に考えてくれる仲間」そして家族です。

本当はですね、子供達は明確な正解を教えてくれる大人を求めるのではなく、自分と「一緒に悩み考えて側にいてくれる人」を求めるのです。温かみがありますからね。

正解なんざ、本当は誰にもわからない。正解を答えようとか「正解を知ってる!」と思い込むのが本来は誤りで大人の勘違い。大人(親)にだってわからないこともたくさんあります。

求められるのは「一緒に考えよう」という姿勢を貫くこと。

現在の状況は起るべくして起った状況です。

付け焼き刃で今さら急に監視体勢とか体罰を強化した所で、結局は陰湿ないじめや虐待、もっと巧妙に立ち回ろうとする子供達が増え、状況を更に悪化させるだけでしょう。

子供達が選ぶ解答とか未来が、確かに「間違っている」かもしれない。それでも自分で選ぶんです。

選択肢を用意してご本人に選ばせてあげること。選択はその人個人の意思の力で行われねばならない。たとえそれが我が子のことを真剣に心配する親で。子供のために用意されたものであったとしても、それは結局はその子の成長の妨げとなるでしょう。

話し合う機会とか考える時間を「子供達に与える」ことこそが、大人に科せられた義務です。そして、出来ればその選択時に「誰か大人が一緒にいて」悩んだり考えてあげることです。

時間がないから「お金を渡しておこう」とすれば、当然、子供は「お金さえあれば何だって許されるんだ」といった感覚が生まれます。

それを後からどうやって否定するのですか? 援助交際という言葉が生まれて久しいですが、お金さえ与えておけばいい、と思った大人たちの弊害ではないですか?

お金だけ与えて子供を振り返らない、時間を割かない親が増えることは結局、「お金のためになら何だってやっていいし、誰を犠牲にしてもいい」ことを大人が身をもって教えていることになります。

身体は私のものだから「売るのは自由だ」になりますよ? お小遣いや遊ぶ金が欲しくて親たちが一緒にいない。どこで何やっててもバレないなら「おじさん相手に身体を売ろう」にもなりますよ?

会ったこともない第三者に身を任せることの怖さ、家族に内緒で会いにゆく愚かさを知らないのですから。同級生がそういった行為で大金を稼いだと聞かされればその気にもなってしまう。

子供を騙すのなんて簡単ですよ? 相手の言い分とか嘘を信じ込んでしまえばTwitterやメールで誘い出されて殺されることだって起こります。すでにトラブルに巻き込まれている人は大勢いるのですから。

忙しいのはわかっています。生活が大変なのもわかります。ですが、今の日本において餓死するほど生活に困っている人は何人いますか?

子供の幼い頃に時間を割かないことは将来に禍根(かこん、わざわいの種)を残すことになるのです。子供にとって親はその人しかいないですし、価値観とか精神的な豊かさはその時期(幼少期、思春期)にしか伸びないのですから・・・。

豊かさの意味はどこに?

犬の足跡 アイコン極端に言えばね、多少、飢えたり不自由な思いをしても父親や母親にいて欲しいと思いますよ。父親や母親の愛情はどんなご馳走よりも勝るのです。

寂しいものは寂しいんですよ。聞いて欲しい時に聞いてもらえず、話を聞いたり時間を割く代わりに「お金さえ」与えておけばいい、ということを繰り返せば子供は親を必要とはしなくなります。

それが物欲からひったくりや売春、盗みを繰り返す子供が増えた理由でもあるでしょう。

「お金だけを与え続けていると」金づるとか餌をくれる相手としては子供は親を認知します。ただし、それだけでしょう。

誤解する人は多いですが。人間が飼っている犬や猫、愛玩動物であるペットであっても「餌をくれる人」=「飼い主とかご主人様」にはなりませんよ? 散歩に連れていってくれたり、ブラッシングをしてくれたり愛情を持って話しかけてくれる人を家族とか仲間、群れのリーダーとして認知します。

ずーっと家を留守にしていたり。帰ってきてもろくな会話もなかったり。家族で触れ合える時間やその手間を惜しめば、それはその群れの一員ではなくなってしまいます。

お金を稼いでいるとか、たまの休日で疲れているではなくてですね。どんなに面倒だったり疲れていても、時間を割いて子供たちに接しないと。仲間だとは認めてもらえなくなるのです。

外敵や他の犬に噛まれそうになったり、近所の子供たちに苛められそうになった時に庇ってくれるのがご主人様であり群れの長(おさ)です。散歩に連れ出してくれたり、寂しい時に甘えさせてくれるのがその群れのリーダーで飼い主ではないでしょうか?

ペットですらそうなのですから・・・。もっと高い知能を持つ人間の子供たちに餌とか遊び道具、ゲームさえ与えておけば、親の言うことを聞いたり良い子に育つと思いますか?

懐きませんよ。種付けをしたから男親じゃないですし。産んでやったから母親でもありません。手間と時間をかけ、愛情を注ぐから親子関係は定着します。

日本も少し昔までは貧乏で食べ物がなかったのかも知れませんが、子供たちが「ゲームを買いたいから」とか「あのバッグが欲しいから」といって、ひったくりをやったり、見ず知らずの男性に身体を売るような行為が横行したでしょうか?

あまりなかったと思いますよ? 物欲が支配しているというよりは倫理観が下がっているのです。

数十年前、戦後の貧しい頃に米兵相手に身体を売る日本女性をみて「貧しいからいけないんだ」と涙を流した心理学者がいます。その当時、日本が豊かになればこういった行為(売春等)は無くなる、と本心から思ったそうで心底、撲滅を願ったそうです。

引用した朝日新聞(心のプリズム)などの書籍にもそう記されています。

ですが、現実には無くなるどころか増えてしまっています。私には物質的な豊かさを求める余り、日本が何かを置き忘れてしまったような感覚があります。

私個人の推測としては親や教師、広い意味では「大人」が、子供達と触れあう時間を持たず「考える」機会を与えることをしなかった結果が、現状を招いていると考えています。

誰とも触れ合う機会を持たなかった子供が次の世代で親になっています。おじいちゃんおばあちゃんと同居はしておらず、子供にどう接したらいいかもわからない。

その親たちがPTAや学校行事に参加した時に、協調性やモラルを求めてもそりゃ難しいですよ。自分たちはモンスターペアレントになった、なってるつもりなど毛頭ないのですから。

経験のない世代が、手探りで教育に関わる状況になっています。

義務と権利は表裏一体のもの

壊れた宝箱 アイコンそういう環境で育った「今の親達」そして「教師たち」が、何も教わっていないんですから・・・。

子供たちの管理が行き届いたり、自分の子供に厳しくしつけができるわけもないでしょう。

おまけに過去の義務教育の中で半端な平等意識や「お手々繋いでゴールイン!」のようなゆとり教育を受けています。

自分たちの権利ばかりを主張し、「私達の人権を法律や国が守るべきだ」との価値観を植え付けられた人達は義務なんて放棄しますよ。何を与えられたとしても感謝などせず不満ばかりが募ります。

本来なら努力しないと得られないものの筈なんですけどね。何の努力もなく収入もろくにないのに「最高の教育と環境を寄越せ!」と怒鳴っても得られるものではないですから。

なぜか、日本にはその手の人達がいます。世界各国から比べれば識字率も高いですし学校給食もあり、誰もが当たり前のように学校に通えますよ。

宗教による差別、肌の色や国籍で公立校を分けるとかもありませんし。海外のように治安が悪いからとか宗派や人種によって攻撃を受けるから自宅待機といったことも日本では行われていません。

子供の頃に親から叱られていない。何が間違っているかを学んだり考えた経験がない。自分が恵まれているとの感覚がない。ですから「自分にないもの」ばかりを数えますし、常に不満ばかりを口にします。

そういった人は自分の不遇の原因は社会とか政府とか自治体や「国にある」と考えます。

モンスターペアレントと呼ばれる一方的に権利を主張し、学校や自治体、他の保護者に責任と義務ばかり負わせようとする感覚は、そういった過去の教育や環境から生まれてくるのです。

いきなり、どこかから沸いて出てきたのではない。種は随分と前に蒔かれていますよ。

先の実験の例を参考にしてもわかるでしょうが、大人がいない状況、何も指示しない状況で「見てるだけ」の状況が長く続いた場合、子供は自らの価値観で「これでいいんだ」と思い込んでしまいます。

自分なりの価値観が先に定まってしまうんですよ。

そういう状況で長く放置しておいて、子供が荒れ出した途端「親(先生なども含む)の言うことを聞きなさい!」「社会に迷惑です!」と高圧的に迫ったり、殴りつけた所でそれは通らないでしょう。

教室や学校の監視体制や罰則を強化する以前に「親も含めた家族全体を」見直す時期にはいっています。指導や教育が後手になればなるほど、修正とか行動の抑制、感情の爆発は防ぎにくくなります。

できれば、もっと子供の話を聞いてあげて下さい。一方的に怒るとか叱るのではなく、少しでいいですから時間を割き子供と一緒に悩んであげて下さい。

本来はね・・・。「ただ一緒に遊ぶ」だけでも、何かが出来た時に「きちんと褒める」だけでもいいのです。その一見すると「くだらない時間」こそが子供達にとって必要な時間であり宝物なのですから。

答えは結局、子供自身が見つけます。私達がそうであったように子供はそうやって大人になって行くものです。幼い時期に一人きりにしないならば、その後は自分で成長し自分で学ぶことができます。

その過程の中で、精神的、肉体的に幼かったり定まらない時期は大人の手助けや環境整備、「誰かが側にいてくれること」「一緒に悩んだり考えてくれること」が重要なポイントになると思います。

難しくとも子供と接する時間を確保する努力を・・・。

求められているのは「正解を教えてくれる大人」ではない。悩んでいる時に「一緒に考えてくれる大人」「助けようとしてくれる仲間、家族」なんです。

側に居てくれる人を求めなくなった時点で、すでに子供ではありません。実年齢が何歳だろうと関係ないですよ? 差し出す手はもう必要ないのです。そうなったら関係の修復は極めて難しいでしょう。

後になって手出ししてくる大人や親は迷惑な邪魔者に過ぎません。

宝箱を壊してしまってから慌てても元には戻りませんよ。種を撒けば収穫の義務も生じる。あなたのお子さんが荒れて虐めやトラブルを引き起こすようになって、売春や窃盗、挙句に殺人や麻薬に関わるようになってからでは遅いですよ。

私には現在の教育の現場で起っている問題を聞くと、子供達の悲鳴が聞こえるような気がします。

このコーナーの初稿は1998年に書かれています。年数が経過しましたので2017年のサーバー移転の際に、読みやすいようにレイアウトと一部に加筆修正を加えてあります。

1997年05月01日 初稿

2017年12月13日 加筆、修正

谷口信行

応用と実践のインデックスへ