コミュニティの一員として参加するのなら
ウチのホームページには政治家も時折、観に来ます。ムーが大好きだった鳩山由紀夫氏などはウチの常連かも(笑)。ホームページを公開した当初から衆議院会館からのアクセスログがあってびっくりしました。
上記しましたが震災のおりの元首相、村山富市氏のいいかげんな対応を責める内容を載せた所「貴殿の所は素晴らしい内容のホームページだが社会党(現社民党)の部分だけ相応しくないので外せ」と懇切丁寧なメールを送り付けられたこともあります。
むかついたので、余計にそういった連中を批判する記述が増えてしまいましたが(笑)。
私の思想は「どちらかというと右寄り」ですよ。サヨク系の連中に参加したり応援する気は毛頭ありません。ただし国粋主義とか日本人至上主義もお断り。日本人にだって屑とかろくでもないのが大勢いるのは実体験で「何度も」思い知っていますから。
国籍だけで分けるのはそれこそ血液型や星座で相手を見極められると言い張るに等しいです。
このホームページは初期の頃から旧新進党や衆議院会館のログも驚くくらいにたくさんあった(笑)。
日本に住まう在日の人に「投票権、参政権を与えろ」とネットに書いたのもおそらく私が最初でしょう。ただし、私の言葉はこの国で「ともに歩む」意思を持っていて犯罪や反日活動を行わない人達を指したのであって「帰化もしないし国籍や戸籍も移さない、納税もしない」人を支持はしませんよ。
日本国内で「反日活動に積極的に関わる人」に無条件で「参政権とか年金を与えろ」「税金や生活保護を与えろ」と書いた覚えはありませんよ。
そんな国は世界中探したってありませんから。
アメリカでは市民権を得る時に宣誓書にサインします。外国人(移民者)には提出が義務付けられています。その中に「アメリカ市民として国家を尊重して反米活動を行わない」との文言はあります。
「アメリカの憲法に従う」「法律を守る」ことに同意することが条件です。その条件に違反したり無視すれば資格を失います。その国の国民になってその国に奉仕して一緒に頑張る、という意思を示すからから快くコミュニティに受けいられるのです。
誰かのテリトリーとか国に勝手に入って、その中で「独立国家を作ろう!」だとか自分達で好き勝手にしようって人達はどこの国やコミュニティでも敬遠されますし排斥は受けますよ。
真面目に働いてコミュニティの一員としての義務を果たすものには投票の権利も与えられるべきだと私は思っています。犯罪、反日行為とか日本の文化や伝統、慣習を馬鹿にしたり汚す人達に対して向けた言葉ではありません。それならいっそ、祖国に帰国して別の道筋を歩んだほうがいいでしょう。
そもそもの「外国人参政権」とは元々そういった意味合いのものではなかったと思いますけどね? 色々な人間が寄ってたかって内容を変えてしまったようですね。
確かに、ウチのサイトにもそれに関する記述がいくつかありました。新進党とかのログを散々見た後なので、そういった文章が政策に影響でも与えたのか? と思ってびっくりしたこともありました。
コミュニティを脅かすものは、障害者ではありません。外国人だからでも肌の色が違うからでもない。私達の生活、つまり「コミュニティを脅かす」のは一種の異常者です。
異常者とは、精神障害者を指すのではありません。まして、「三国人」などでもない。
異常者とは思いやりを持たぬ者です。相手を利用しようとする者です。自分の都合で他人を殴ったり、傷つけたり、相手の大切に思うものや家族、生活を踏みにじって平気な者です。
手段を選ばず、私利私欲を満たすものがコミュニティの邪魔者
私が「左寄り」の連中を嫌うのには理由があります。
掲げるお題目は立派なんですが、昔から共産主義や社会主義を掲げるもの、社会の平等を訴えるものが「本当に平等だった」試しがない。
自分たちに逆らうものとか意見が対立するとすぐに弾圧を始めたり、敵対する相手を殺してしまう。それを隠蔽するために書籍や記録を燃やす。ネットに書かれている都合の悪い意見を「削除しろ」と平然と言ってきたり。
旧民主党などは政権与党になってからも自分たちに都合の悪い発言は議事録に残すなと求めたり。まだね「右寄りなほうがマシ」なレベルなんですよ。言論封鎖、ネット規制、弾圧や処刑の数では左翼系を名乗ってる連中のほうがよほど多くて悪質です。
彼らは目の前で餓死しそうな人がいたり溺れてる人がいても「自衛隊には頼るな」というのでしょう。
「異質なもの」は様々にいますが・・・。最初の大前提である「殺さないこと」「民衆や一般人、弱者を大切にすること」を守れない連中が上でのさばっているようなので、私は日本の左派とか旧社民党系の連中を一切、支持しません。
それは本来の共産主義の思想とは正反対です。元は弱者を守るための分配思想だったはずです。いつのまにか資本家打倒、政権転覆だけを目的としてしまって手段を選ばなくなっている。
これも将来的には変化するのかもしれないですが(笑)。現時点では難しいですね。そういった意味では私も古い世代の一員でしょう。保守的なのかもしれないですね。
コミュニティにとって邪魔なものとは家族や友人、隣人や仲間を傷つけて顧みない(かえりみない)者です。懸命に生活する「誰か」を、自分の都合で振り回したり、身勝手に傷つける者が異常者と呼ばれ本来なら排斥されるものでしょう。
確かにある意味では精神に障害を持つ者も、一般人や外国人、未成年者もその範疇(はんちゅう、グループ内)に入るでしょう。彼らは何かのきっかけで「異常者」と呼ばれるような犯行、凶行に及ぶのかも知れません。
ですが、それはただの可能性に過ぎません。
言い換えればどこかのコミュニティに所属し、どこかで生活する限り、誰もが等しく加害者になる可能性があり、と同時に自分や家族が被害者になる可能性があります。
簡単に「精神に障害を持ったから」とか、「未成年者だから」「外国人、在日だから」などの薄っぺらい判断、外見や一部の条件や価値観で相手を差別したり危険でしょうね。その部分だけを見て安易に排除するべきではないのだと思います。
それではあまりに考えが無いでしょう。物事の捉え方が浅くてお粗末だと思います。
コミュニティは自らの意思で育むもの
今回のこのコーナーはとても長くなりましたが、若い世代に向けてこのメッセージを贈ります。コミュニティとは本来、守るものではありません。育む(はぐくむ)ものなんですよ。
ある一部の人間がどんなに自分達の古くからある慣習、価値観を守ろうとして強い差別や偏見を持とうと、どんなに周囲を脅かしてガッチガチに縛ろうとしても、いずれ変化は訪れます。
歴史とはそういうものなんです。
数千年前の楔形文字にだって「今どきの若い者は」とか「我々の守ってきた文化が廃れてしまう」との嘆きの言葉があります。年寄りはいつも嘆き、「昔は良かった」とつぶやき、「我々の文化を守らなくては!」と考えるものなんですよ。ですから身動きがとれなくなる。
年寄りはいつか死にますからね(笑)。どんな権力者も死からは逃れられません。遠からず、全員がいなくなるんですよ。ブラックユーモアのようですがそれが現実です。
どんなに堅固な社会、どんなに強い結びつきを持った集団であれコミュニティであれ時間と共に変化します。いつまでも同じということはありません。時代背景や社会の変動、時間の経過と共に人々の意識も徐々にではありますが変わってくるのです。
ですから時には何かを受け入れることも必要です。新しい血も必要なんですよ。怖さのあまりに身構えてしまって全てを否定し、新しい人達とか異質な文化を受け入れないならば新たな関係が育つ事はないでしょう。
歳寄りは別にいいんです。いずれ死にますから(笑)。
私も含めてですが頑固であることも役割の一つ。それぞれの世代に世代なりの守りたい世界とか慣習もある。それでいいんです。
その世代の人達がそれを守ろうとするのは当たり前ですし、自分たちの伝統や文化、慣習や「コミュニティ」を次世代に引き継いで欲しいと願うのも普通なんです。
そこを打破していくのが若い世代ですし、理解や協力を得るために努力するものです。
私が様々なものにこだわりや抵抗感を持つように私よりも上の世代もまた違った抵抗感や価値観を持つ。若い世代にはそれなりの思いがある。そのそれぞれがせめぎ合っている。それこそが社会です。
価値観が全て統一される社会がおかしいですし、価値観や意見が違うから「殺してしまえ!」とか弾圧してしまうのもおかしい。言い合ったり喧嘩しあっても「そこに共存」することこそが正しいのです。
なかなか変化が訪れない。老害が邪魔して道筋が見えない。横から見ていてイライラしたりむかついたり、機関銃があったら撃ち殺したいと思うかもしれない。
それでも共存の道や話し合いの場所を失ってはならない。殺さないことなんですよ(笑)。そのカオス(混迷)そのものが社会であり人間であり、新しい何かが芽生えるきっけけであり土壌だからです。
変革には長い時間がかかる。時には呆れるほどものわかりの悪い連中がいる。
それでも徐々に変化が訪れる。それが変革であり、時代の潮流と呼ばれるものなんですよ。
異質な者は誰しもが怖い
日本の古い法律(大宝律令)に障害者を受け入れ、支援する記述があったのは、当時の人達の勇気の証(あかし)でしょう。当時としては画期的なものです。やはり導入には紆余曲折(うよきょくせつ)迷いがあったでしょう。容易なことだったとは到底思えません。
誰かを支えるのも信じるのも勇気がいるんですよ。これまでと違う他者(他国や国籍、肌の色や考え方の違う人、障害を持つ人も含める)を、自分の生活圏に受け入れるにはとてつもない勇気が必要です。
怖さは誰でも持っています。異質な者、特異な者、自分が理解しがたい者とか異国人が怖いのは当たり前のことです。いくらシャーマンとか呪術、占いとか神懸かりが一般的な時代だったとはいえ、それを保護しようとか罪を問わないようにしようとか社会で受け入れようというのは難しかったと思います。
排他的になり、過去の事例を引き合いに出して相手を遠ざけることは簡単です。
私も恐いんですよ。
私は多少は修羅場(しゅらば、危ない現場って意味)を潜ってきています。泥棒を捕まえたことも、包丁を振り回す相手を取り押さえたこともある。
食えない時代には様々なアルバイトをやってました。それこそ水商売から肉体労働に至るまでありとあらゆることをやった。だからこそ、異質な者に対するコミュニティの反応もよく知っています。
その職場とか職種ごとで決まりごとみたいなものがある。不思議だなと思うのは水商売の人間がサラリーマンを見下したり、サラリーマンが肉体労働の者を見下したり、正社員が季節工や派遣社員を見下したり、その世界の「ルール」とやら常識を押し付けることも多々ありました。
お互いが人間です(笑)。外国人じゃないんですよ? 少なくとも言葉くらいは通じる。相手の世界のこととか苦労とか悩み事は見ないし知らない。なのに見下したり悪口言ったりは出来る。
何ででしょうね? 同じ国内、同じ人種で同じ言語を操っていたって、そういったことは起こる。
それをみて「なんて心が狭いんだ」というより、当時は「なんでその程度のことにこだわったり、お山の大将ごっこやってるんだろう?」と不思議に思ったりもしました。
相手のこととか、他の世界のことは知らない。知らないなら自分で飛び込んでみたり、試してみたり会って話したしたほうがいい。その上で自分で判断すりゃあいいんです。
私はそう考えて色々な仕事をしました。カバン一つしか持たずに友達も家族もいない場所に一人で行って住み込みとかアルバイトから始めて経験を積みました。
中には悲しいこととか苦しいこととか、泣きたくなったこと、悔しくて夜も眠れなかったこともありました。その上で言いますがそれでも様々な職種、多様な人々と話してみたほうが可能性が広がりますよ。少なくとも若いうちは色々やってみたほうがいい。
でないと価値観が狭まったままで歳を重ねることになります。
歳をとってから新しい挑戦なんて出来ません。誰かを受け入れるなどもできない。恥を掻けるのは若いうちだけですよ? 年齢の上昇と共にプライドが高くなってまったくできなくなるから。
30歳過ぎたらむしろ過去の遺産というか経験や人脈を活かして事業とか仕事を広げる人のほうが多い。過去の経験とか悔しい思いが人を育てるのであって、そういったバックボーンというか背景が無い人は薄っぺらな発言や仕事しかできないのです。
自らでは何も努力せず、恥を掻くことを恐れて何も積み上げていない。そういった人が安易な物まねとか盗用を重ねるようになるんですよ。自分では何も書いたり創り上げることができないから。
負けたくない気持ちの強かった私は格闘技なども長くやってました。徹底した自主トレやってましたから、ミケランジェロの彫刻のようになってて服を脱ぐと驚かれました。
でもね、それでもまだ見ぬ相手とか異質な者、自分とは異なる「何か?」の雰囲気を持つ人は恐いです。やはり入って行くのも受け入れるのも怖い。ですから垣根を作ってしまうとか、俺様ルール、仲間内だけでまとまってしまったり異質なものを見下ろす気持ちも少しはわかる。
でも、そればかりになってしまえば、とても小さな世界しか知らないままに一生を終えるでしょう。それはやはり寂しいと思いますよ?
人同士の繋がりやネットワークが子供たちを守る
大阪の児童殺傷事件(宅間守死刑囚)などはとても不幸な出来事です。残念ながら、今後もそういった事件が再発しないとも限らないでしょう。不安に陥る親御さんも多いと思います。
あの事件を契機に精神障害者への誤解や錯覚も増えたのかも知れません。元々、このコーナーはそういった誤解を少しでも減らしたいと願って公開されたものです。
私は精神障害者が事件を起こすのではなく、社会とかコミュニティを怨んだり嫉むもの、つまり異常者がもっとも弱い部分とか子供を狙ってそのような酷い事件を引き起こしたと考えています。
それを知って欲しいと願ってここまで長々と文章を綴りました。
私は以前から言っていますが、犯罪を抑止するのはお互いの繋がりだと思います。
お互いを「見張る」のではなく気づかうことです。「責める」のではなく思いやることです。その気持ちが育つならば、おかしな人が参入してきてもきっと周囲の誰かが気がついて忠告もできますし、地域や社会でその「コミュニティ」を荒らす異常者に対して対策も立てられるようになります。
昔の日本の社会においては向こう三軒両隣とも言いました。隣の子もその隣の子も知っている。我が子ではないが近隣住人の子供は自分の子と同じように注意したし叱った。
危ないと思えば庇いもするし助けようともしました。他人のお宅でご飯まで食べさせてもらってた子もいます。そもそもは叱ったり見張ることが目的ではなかったでしょう。お互いの子供を「気づかった」だけです。
昔は皆、貧乏暇なしで共働きとか子育てをしながら内職とか留守も多かった。ですから自然に互助会とか支援組織に似た形になりました。
おそらくですが、コミュニティを脅かすのは「外国人だから」でも「障害者だから」でもない。もちろん「未成年者だから」でもないでしょう。
そういったレッテルを貼られた者が重大な事件を引き起こすのではなく、何でも自分の好きなことをやっていいんだと思いこんでルールやコミュニティを無視する者が、大きな災厄を招くのだと思います。
最近多くなってるのは、自由という意味の履き違えですよ。自由とは「私(達)だけは何をやっていいしその権利がある」ではないのです。社会にはそれぞれに決められたルールがある。多くの人が暮らしているのですから。双方が嫌な思いをしないようにマナーやルール、慣習があって法律がある。
そのルールの全てを無視したり、自分に都合のいい部分だけ抜粋するのは「自由」ではないでしょうね。自分の自由とか権利を主張するために、誰かの権利とか立場、まして相手の命を棄損(きそん、失わせる)するならば間違っています。
それを受け入れてくれるコミュニティは世界中のどこにもないでしょう。
学校や会社もコミュニティです。家庭も地方自治体もコミュニティです。国家も同じでしょう。そういった枠組みを大切にせず、地域の縦横の繋がりやそこで生活する人々を愛さず、自分の都合だけを振りかざす連中がトラブルや被害を拡大するのだと私は思います。
犯罪を予防するために、私の考える主張は一つです。
それぞれの結びつきを深めること。
大小さまざまなコミュニティがありますが、そのコミュニティの仲間や参加者同士で「情報を」交換したり共有すること。違うコミュニティとか枠組みでも情報を交換すること。
そういう形で様々な張り巡らされたセンサーに、何かが引っ掛かった場合には警報を発して社会全体で、コミュニティや子供を守るように「お互いが気づかう」こと、です。
聞こえてくる情報、警戒警報を「他人事」だとは思わないように・・・。それが大事です。周辺住民のや地域住人気持ちが団結していれば、やはり他人は割って入りにくいものなんですよ。どんな凄惨な事件にせよ必ず事前にその兆候はあります。
コミュニティの住人同士の結びつきを深めて話し合い、お互いを色眼鏡でみないようにして関係を深めることです。その上で異質な者とか不思議な人が入ってきたら全員で注意深く観察するようになれば「悪意の兆候」は見えます。
近隣で似たような被害とか危ない事件がなかったかを調査したり相互に情報交換できる通信網やネットワークを育てるべきです。それが私の主張です。
そこに毒蛇がいる、とわかれば防御もできる。少なくとも無闇矢鱈(むやみやたら)と危険な部分に手を突っ込む人を減らすことができる。そうは思いませんか?
個人の力はたかが知れていますが、周囲の協力があれば猛毒を持つ蛇やトラ、ライオンでも警戒はできます。退治できるかどうかは別として被害を最小限に止めたり、次の犠牲者を救える可能性が高まります。
コミュニティとは、実際には国家や会社、何かのイデオロギーや枠組みではありません。
大切な「人」こそが、各自の繋がりです。家族であり友人であり、恋人、会社や学校も含めた仲間などが、人々が大切にしたい「コミュニティ」そのものです。
誰かを「大切にしたい」「家族や仲間を守りたい」と望む心、思い、そしてその相互の結びつき、それがそのまま多くの繋がりを育て大きなコミュニティとなります。
たくさんの心、人との繋がりを大切に・・・・。
その思いこそが、結果として多くを支え、たくさんの人を助けることになるのでしょうから。
2001年09月01日 初稿
2017年12月14日 加筆、修正
谷口信行