進展があったので「洗脳について」に関する記述
洗脳を解く方法について、という文章を1998年の9月頃に初稿として載せました。
元々は私の好きだったXJapanのボーカル(TOSHIさん)という方が「洗脳された!」とセンセーショナルな見出しが週刊誌やマスコミを賑わしていた頃です。
私の開業が1997年ですから、まだ初期の頃の文章ですね。2年目に入る頃。
また1998年には元横綱貴乃花も似たような騒動がありました。1997年から1998年前後にかけてはそういった騒動が頻発していました。
マスコミの言う洗脳という表現が事実だったかどうかはわかりませんが、このコーナーは私なりに社会に洗脳に関する警告を行おうと考えて書かれた文章でした。
私自身がワンダフルってTBS系列に出演していた頃ですね。ロケなどで出かけている合間に書いたと思います。
当初はかなり短めの文章で中身も薄かったのではないか?と思います。その後、オウムの事件とか大阪で洗脳騒動を起こした集団(ライフスペース)とかが複数ありましたのでヒット数が異様に増えました。
経験年数が増えると同時に徐々に内容を強化、実体験を交えて改訂してあります。
それが今回、またYahoo!とかGoogleの検索でトップに来ているようですね。年末の全面改装とたまたま時期が重なったのでインデックスの順位が跳ね上がったようです。
これは私が意図したものとか望んだものではないですが・・・。
毎度毎度のことながら、こういった報道がある都度にトップに躍り出てしまうようです。こういった記述はかなり難しいですから・・・。詳しく書く人もあまりいないですね。
実際に難しいのは脱退、脱会してから
現在は「洗脳を解く方法について」と言うタイトルで載せてあります。
内容にはかなり苦労しました。紆余曲折を経て、何度も何度も見直しながら書き直した文章です。少々長いですが興味がある方は読んでみてください。
2010年1月18日の報道記事ではXJapanのTOSHI(44)が、WANKU(わんくぅ)の名で歌手活動中の香夫人(40)と離婚に向けた話し合いを始めた
と、「スポーツニッポン」が報じています。
今回も報道の全てが正しいのかどうかはわかりませんが、何かが動き始めたのだけは間違いないでしょう。
年齢も近いんですよね。TOSHIさんと私は。同い年で同じ学年です。
私自身が自営業を始めたばかりで生活とか仕事が苦しい時にXJapanの音楽を聞きながら延々、数百回腕立伏せしてた時期がありました(笑)。
それもあって他人事とは思えず、拙いながらも一生懸命に書いた覚えがあります。
繰り返しますが一連の「洗脳という報道」が、事実かどうかはわからない。わかりませんが、私が催眠とか心理学、トランスや洗脳というものに詳しくなるにつれ、相手の表情を読むことはできます。
私の経験から言えば、以前とはまったく異なる表情や印象、語り口調などを行い「以前の自分はおかしかった」などと聞かれもしないのに早口で言い始めるのは洗脳などの典型です。
当時に映像などを見て「これは外部から何らかの形でコントロールを受けたからではないか?」と考えたので文章を綴ったことになります。
実際には脱会してからが難しいんですよね。洗脳を解く方法について、で詳しく書いていますが・・・。
周囲のサポートがない、家族とか恋人、奥さんや仲間が同じグループ内に取り込まれている場合、解除は至難を極めます。
宗教の全てが悪いのではない
誤解のないように書いておきますが、私は宗教活動の全てを否定はしていません。
人は時に弱くもなります。何かを失ってしまったり、苦しんでいる最中には頼りたくなる時もある。死んでしまったり何年もそのトラウマに苦しむくらいなら、どこかの団体に所属したり話を聞いてもらうことも救いの一つなのです。
問題となるのは、その宗教なり団体に関わることで以前の友人とか家族関係が歪んでしまったり、まったく付き合いがなくなること、ならびに財産やお金を全部奪われてしまうことですね。
子供が泣いていても気にしないし放置する。夫や妻の面倒をみない。周囲に宗教とか所属している団体の話しかしなくなります。金銭的にも無理を重ねますので、生活ができない状況に追い込まれることになります。
まともな宗教ならそういった犠牲を信者や信徒に強いません。何かを求めるにしても生活の基盤を失わせるような行為はしないものです。
高額な壺とか掛け軸をローン組んで買えとか、世界平和だ地球愛だなどと言っても信者の犠牲の上に成り立っていたり、家族や子供たちを踏みつけにして幹部が豪勢な生活をしているなら私は絶対に認めません。
信仰とは「信じて仰ぎ見る」と書きます。
信心(信じる心)は常に正しいのです。何かを信じて分かち合い、誰かを支えるための教義や宗教ならそこに歪みはない。信仰とはそれぞれの心の中にあるのですから・・・。
私は無神論者で神を崇めませんが、それでも周囲を支え、隣人を愛し、争いよりも平和を選ぶためにその宗派や宗教があるのなら、そういった人達の悪口は絶対に言いませんよ。
ただし、一部の幹部とか宗教関係者の教祖が好き勝手な生活をしたいために誰かを利用しているなら、それを認めることも絶対にありません。
宗教本来の姿とか「教え」を歪めないように
宗教とか宗派は「人が生きる道」を指し示すためにあるのです。
子供や家族、仲間を利用したり踏みつけにして、生活もできない、食事も掃除もしないままに宗教活動をするような親とか夫とか母親とかを「素晴らしい活動をしている」などと言う人は異常者です。
言い変えれば宗教や宗派は「人が生きるため」にのみ存在すべきです。
自爆テロも含めてですが人に自殺しろ、と勧めたり命令する宗教はおかしい。それなら最初から兵士として厳しく教育すべきでしょう。神を挟まないとそれが出来ないなら指導者、指揮者として無能です。
そこに神とか神の教えという概念を途中に挟むべきだと思わないのです。神は弱者を救済するためにある「概念」です。その概念が誰かの命を奪うための道具になってはいけない。
子供の世話や家族を放置して宗教活動をしろと強要する宗教もおかしい。それは緩慢(かんまん、ゆっくり)とした自殺と同じで徐々に生きてゆく力を奪います。
X JAPANのTOSHIが香夫人(40)との離婚調停を申し立て、さらに破産宣告を受けたことが17日、分かった。この日更新した「mixi」の日記で明かした。
私はmixiはやってないので確認はしていませんが、こういった報道もあるようです。
その団体で広告塔とまで言われた人ですよ。その人が今になって自己破産という報道がなされると言うことは「緩慢な自殺」に追い込まれて全てを失っているに等しいのです。
部屋がぐちゃぐちゃに散らかったままでね。宗教活動やってる親とか結構いますよ。
「それのどこが神の教えだ?」と私は思います。神様本来の姿が歪んでいる。
子供をまず大切にすべきです。部屋を掃除してきちんと整えてあげること。それは親としてというよりは、人としての最低条件です。子供には何の力も備わっていないのですから・・・。
それはおそらく、見たことも会ったこともない神様なんかより数倍も大切なことです。子供の面倒をきちんとみて、家族が社会生活をきちんとおくっていけるようにして、その合間に教会に出かけたりボランティアに精を出すなら意味はわかります。
全てに神を最優先ですか? 自分の子供の面倒とか生活は最後にしろと? どこの神様が求めるのでしょう? 本当に神という存在があるのなら、そんな薄っぺらな教義とか感覚を押し付けたりしませんよ。
家族という単位、仲間を大切に
どんな宗教の本にも「施しをしなさい」「困っている人、飢えている子供を助けなさい」とは書いていますが、我が子や家庭をないがしろにしろとか、生活をないがしろにして「ともかく教会や寺院に通え!」などと書いていませんよ。
教会に行けないことを申し訳なく思いつつも、懸命に我が子を育て毎日つつましやかに暮らしている人のほうが、きっと神様仏様の御心には適うでしょう。聖書や教典にもそういった表記はあります。
普段は一生懸命に子育てや仕事に励み、空いた時間、例えば食事の前とか寝る前に感謝の祈りでも捧げたほうがいいでしょう。
それを「お前は教会に来なかった!」とか「なんだこの献金の額は! もっとたくさん持ってこい!」と怒鳴るのなら、それはきっと神様なんかじゃありませんって(笑)。神様の名前を名乗って搾取(さくしゅ)する、人の形をした悪魔が途中に居座っているのでしょう。
これは私個人の感覚で誰かに押し付ける気はありませんが、神が存在するのなら「自らの所属する団体の力」とか「団体の大きさ」とか「信者の数」を誇ったりしないでしょう。
まして立派な教会など神が欲するとも思えません。
神様が絢爛豪華な服装とか、金ぴかの舞台を求めますか? 大きな団体であるとか会員数とか? それはただの錯覚です。人間の社会では宝物に思えるかもしれないですが、それが「神にとって」大切ですか?
それは人間世界における虚飾でしょう。
おそらく着の身着のままで貧乏な姿でも神の御心には適うでしょう。
全き人(まったき、ひと)つまり、神の教えをしっかり守り、貧しいながらも人々を助け、家族や仲間を助けるために懸命に働いている人を、本当の神様なら褒め讃えると思います。
私は献金の額とか教会の豪華さを誇る神様なんて願い下げですよ(笑)。阿呆らしいから。
これは「前世は本当にあるのか?」にも繋がる話ですが、そんな心の狭い神様なんていらない。まして、我が子や夫、妻を犠牲にしろとか祭壇に捧げろなんて神様もお断り。
そんなのが神なら私は神とだって戦います。
そんな神を崇めたり、盲信して周囲をないがしろにするくらいなら人として生き、人として死にます。
教えは大事ですが集団とか団体が大事ではない
そんな身勝手な神よりも家族や仲間のほうが何倍も大切です。家族や友人、我が子を大事に思わない者が神を愛するわけもないですし、家族をないがしろにする者が「社会を大切に」するわけもない。
人は無力な存在として生まれる。自分で歩く事すらできない。野生動物とは違う形で生まれるのです。だからこそ親の庇護とか保護も必要で社会全体で子供たちを守る必要だってあります。
教義とか宗教が、その「守るべき子供」や家庭という単位を軽視するものなら認めてはなりません。生活の基盤を失わせるものや、布教や勧誘のために家族を犠牲にするものであってはならないのです。
人として生きるために現世に生まれるのです。前世の記憶を失ってこの苦しい現世に生まれ落ちるのは、「それでも生きよ!」という神のメッセージかもしれないですね。
その神が、安易に人に死ねと命じる訳がない。同じ意味で「現世における全てを捨てよ!」も無いですよ。
地球愛とか世界平和だとか、ちょっと聞いた分には心地よい言葉ですが、実際には信者に無理を強いている宗教とか教祖もいます。信者にそういった犠牲を強いて救世主を気どってるカルト宗教の教祖の多くは、高級車乗り回して良い部屋に住んでたりします。
大切なのは「教え」です。聖書や教典などに伝わっている先人の素晴らしい知恵とか体験、言葉です。私はそう捉えています。
宗教の本質とは献金(浄財)の額とか、勧誘した人数、誰かのために無料奉仕して家族をないがしろにすることではない。神の教えを奉じ(ほうじ)自らを厳しく律して「欲だけに走らないこと」私はそう考えています。
私たちは人なんだから、何か欲しかったり求めるのが当たり前でしょう(笑)。多少はしょうがない。
それが無くなったら人ではない。ですが欲ばかりだと社会全体が息苦しくもなってしまう。いつしか誰かを利用したり踏みつけにして平気な人間になってしまうかもしれない。
そんな時に昔の教典だとか聖書だかを読んで神の教えとか先人の知恵を知るのです。
自分を反省し、生活ややり直すためのヒントを得る。教会や寺院に出かけて同じ信仰を行う仲間と触れ合い罪を告白したり懺悔して時には「生活に支障がない範囲で」献金や浄財をする。
その結果、心を安らかにして生活をおくる。私は宗教がそういった目的であればいいと思っています。
長くなりましたが、多少進展があったようですので私の考えを述べておきました。
2010年01月18日
谷口信行