催眠術師のひとりごと / 第四章

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カウンセリングと自立の意味を

相談者は「可哀想」なのか?(112ページ)

クエスチョンマーク アイコンまた、他にも多いありがちな勘違いがあります。

カウンセリングを目指そうなどと考える女性の中には「可哀想に、可哀想に」と相手にやたらと同情したり、そう話しかけることが求められている、と勘違いしている女性もいます。

そういったカウンセリング? というか、相手にやたらと「可哀想」を連発する人は、 自分ではいかに相手に情け深く、優しくて恩情があって素晴らしいことをやっているかを周囲には力説します。

無償ではなく有償ですよ? お金を貰っているから「相手に同情している」フリをすることが自分の職業だと思い込んでおり、やたらと相槌を打ちます。

その姿は私からすると、とても気持ちの悪いものです。

反対に超高圧的になる人もいます。何とかの母を名乗る占い師のようなものですが・・・。これも最近はインターネットの普及でそういった種類の人がいるようですね? 私はこれも間違っていると思います。

カウンセリングは常に相手と対等に向き合う必要があります。

「自分と同じ」だとすれば、その人間を哀れむ必要があると思いますか? 哀れむという行為も、相手を見下ろしているのには違いはないんですよ。

自立した人間であればもっとも嫌悪するのは侮蔑と哀れみですよ? 馬鹿にされたり「変な奴だ」と誰かに決めつけられるのと同様、一方的に哀れに思われて「可哀想」と連呼されて喜ぶ人間などいませんよ?

その時点で「上から見下ろしている」ことになり、まるで神を気取っているインチキ教祖のようです。

何かのきっかけで相手がトラブルに見舞われ困っているだけだ、 と自覚する必要があるでしょう。車のタイヤがパンクしたのと何ら変わりませんよ。

確かに「多少、運は悪い」ですが、可哀想を連呼するとか「お前の心がけが悪いからパンクしたんだ!」って罵られたらどう思いますか?

私はお互いが困っている時に手を差し伸べることや、誰かに一時的に助けてもらうことは恥ではないと思います。

そこからスタートして悩みの原因やきっかけとなった出来事を探り、冷静に対処すればいいのではないでしょうか? そこに過剰な同情を持ち込んだり、逆に異様に高圧的になるのは相手に失礼になります。

時には厳しく接する場合も、こちらとしても言いにくい内容をわざわざ言わなければならない場合もあります。励まししたり叱る必要も出てくるのでしょう。

その結果、トラブルは解消するものの、相手に憎まれたり私のように「恋人と別れる」ケースもあります。

都合よく感謝されるケースばかりではないんですよ。

今後、催眠やカウンセリングなどに関わろうと考える人は覚悟しておいてください。

こういった仕事や職業については誤解している人が多い。私にも「感謝されてお金を貰えるなんて素晴らしい商売だ」「だからやりたい」などととメールで言ってくる馬鹿な人がいますが・・・。

嘆かわしいことに、これが一人ではなかったりもします。

決してそうとばかりはいえません。時には嫌われますし徹底的に悪口を言われることも普通にありますよ? そりゃそうでしょう。親とか学校の先生、友人とか恋人、家族とは違うアプローチを試みるのですから・・・。

近くにいる人、家族や友人、恋人では解決が難しくなったから誰かに頼っているのです。

その時点で、耳に心地良い追従やおべっか、褒め言葉ばかりが並ぶわけがないのです。

カウンセラーが嫌われようと憎まれようと、その結果、トラブルが少しでも解消し本人に自立が促されればそれが一番良いように私は思っています。

常に自分自身や家族にカウンセリングや催眠を行っている、と考えて臨む必要があるでしょう。そこに甘えは許されません。自分の家族や子供、友人に接する時にただ「可哀想に」を繰り返しますか?

単に甘やかして何でも聞いてあげることが愛情ではないでしょう? それを行えば自分では何もしない人間に育ってしまいます。ずっと寝かしておけば立たなくなりますよ? 

時には厳しさも必要ですし甘えが許されない場面もあります。

人は皆、弱いんですよ。苦しみ、悩んでいる時には手助けが必要ですが、その時以外に必要以上に干渉してはなりません。それではただ逃げ込んだり、甘えるためにだけ催眠やカウンセリングを利用するようになります。

やっぱりそれではいけないと思うのです。

厳しさや愛情の本当の意味はね、ずっと後になってからやっとわかる場合もあるんですよ。自分の耳に心地良い言葉を並べる人が仲の良い友人だ、と思っている例もありますが実際にはそうではないでしょう。

間違っている、危険が迫っている時には厳しいことも言ってくれる人が本当は思いやりのある人です。

本人が危ない方向に向っている時や、常識に照らして明らかに間違っている、と感じる時には厳しい内容でもあえていってくれるのが本当の友人でしょうし、親の愛情でしょう。

そこを履き違える人が結構います。その場だけ誤魔化して取り繕ったり、甘えさせるのは友情ではなく何か魂胆がある人です。もしくは周囲におもねり、友人のフリをする勇気のない人に過ぎません。

本人の意志は尊重する必要があります。意志は尊重し、なおかつ自立を促さなければなりません。

これが難しい。

「こちらが楽だから」といった甘えは許されないのです。最終的にはカウンセラーや催眠に頼り切りになるのではなく、自分の足で立たせて一人で歩ませることが目的になると思います。

カウンセリングとは子育てに似ているかもしれないですね。

一口で表現できるほど楽ではありません。どっかの占い師のように「私のいう通りにすれば幸せになりますよ?」というほうがよほど簡単ですね。また逆に「可哀想に、可哀想に」「あなたを理解してない周囲が悪いのよ」というのも簡単です。それでお金儲けをしている連中も掃いて捨てるほどいますから。

私もよほど、そうしたい時もありま す。苦しいですから。そう告げるほうが簡単で楽なんですよ。

(催眼やカウンセリングを行う)施術者側にとっても、それを求める依頼者側にとっても、そう告げることが一時的には救いに見えるかもしれません。そこには甘い誘惑があります。

催眠やカウンセリングは宗教でも占いでもありません。お互いが「楽だから」だけではいけないと思うのです。

またそうあるべきではないと思っています。根本を見失うからです。