精神修養、修行は自分の意思で

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私(わたくし)的な観察

最近の報道、痛ましい事件をみて

オオカミの遠吠え アイコンつい先日の話ですが、痛ましい事故が起きています。

熊本県の宗教団体が、屋内に新設した「人工の滝」で、心身の病を患っていた中学2年生の女子に水を浴びせ溺死させるという報道がなされています。(2011年09月27日付)

精神的、体力的にまいっている女子中学生を椅子にベルトで縛り付け、10分間、除霊と称して水を浴びせ、そのまま死亡させたということです。

事故と書きましたが、これは事件ですね。逮捕されたのは僧侶と実の父親のようです。

はっきり言いますが殺人に近い。これほどの悪質な行為を行なっていながら、日本の法律では傷害致死でしか立件できないというのはどうでしょうか? これがアメリカなら、当然のように殺人罪で起訴されますし親権など失います。

3月から100回に渡って滝行? をさせていたとのことですが、悪霊なるものがいるとするならば、悪霊や悪魔に取り憑かれているのはこの僧侶や父親のほうでしょう。

精神的に病んでいるとか悩んでいる、苦しんでいる思春期で不安定な女の子を、半年以上に渡って拘束して水を浴びせ続けるなど狂気の沙汰ですよ。

それを精神修養とか修業とか、まして治療とか除霊などと呼んではならない。

この事件を引き起こした寺(宗教団体)はホームページを持っているようですが、未だに被害者、無くなった女子中学生に対して哀悼の意を示すこともしていないようですし、そういった記述は一切、ありません。

犯行そのものを否認、修業だったと称して逃げようとしているようですね。

こんな連中が坊主だったり父親だったりするんですから、世も末です。

精神修養、修業の意味

精神修養とか修業の意味を勘違いしたり、取り違える連中が多すぎて辟易(へきえき)します。

確かにね。滝行とか荒行は精神修養にもなりますし、弱い心を鍛えたり、苦しい気持ちや悲しい気持ちを押さえ、自分を励ます力になったり何かを達成する原動力にもなります。

ただし、それには絶対条件があります。

「自身の力」「自分の意思で」取り組むことです。

私は戸塚ヨットスクールのような連中も完全否定派です。あれではオウム真理教と変わらない。誰かを強引に何かの施設に閉じこめ、強引に修業とかトレーニング、まして「除霊」と称して虐待したり運動や競技を強いても、それでご本人のためになるとか状況が改善するわけがない。

確かに荒行や苦行を長く続けると、脳内にある種のホルモンが分泌します。

これはドーパミンとかノルアドレナリンとか、エンドルフィン、セロトニンなどと呼ばれるもので、活性力にも繋がりますし、やる気や幸福感を与えるものです。

ただし、その分泌には「ご本人の意思」とか「資質」が大きく関わる、と私は思っています。

私はスクワットを数千回しますよ。毎日、明け方に最低でも千回から千五百回程度はやります。

大の大人とかね。プロレスラーや空手の選手、何らかのスポーツを長くやった人でも、そういった単純運動や基礎体力作りは嫌がります。一度回数に達してしまえば、どうってことはないですし、むしろ軽い準備運動くらいなのですが、達するまでの我慢がなかなか出来ないのです。

殆どが脳内ホルモンの分泌、つまり身体が軽くなったり苦痛が少なくなる前に挫折します。

現在の私には、おそらく「何らかの脳内ホルモン」が分泌しているのです。だから苦痛はない。

自身で取り組み、諦めないこと。それが脳内ホルモンの分泌には大切なんですよ。

私自身も最初は膝や腰の痛みに苦しみました。

心不全かと思うような不整脈や吐き気に悩まされたり、運動後、30分以上も動けなくなったことがある。途中で投げ出そうと思うことは何度もありました。

それでも、現役時代(空手や合気道をやっていた頃や学生の時)よりも20数kgも太っていて、眩暈や片頭痛に苦しむまま死んだり、望んだ仕事もできないままで終ってしまうのは嫌で、自分で追込んで追込んで「身体や精神力」を少しづつ作り養ってきました。

それが「精神修養」であり、修行です。

誰かが「強引に追込んだ」のでは意味が無い

ヨット アイコン脳内ホルモンの分泌はね。確かに誰かが命令して強引に腕立伏せやスクワットを続けさせてもおこりますよ。無理やりヨットとか遠泳とかやらせても、起こる事があるでしょう。

属に言う「追込む」やり方でね。前出の戸塚ヨットスクールとか宗教団体もそれに当たります。

もっともこのやり方には重大な欠点があります。

人が死ぬことですよ。

人は本来、苦痛に耐えるように出来ていません。私が日々行なう、「たった千回」程度のスクワットですら逃げ出してしまう人が大勢いる。脳内ホルモンの分泌が起こり始めればどうってことはないですが、そこまで達することが出来ないのです。

私の経験からの推論ですが脳内ホルモンの分泌が起こるには、ある種の段階とか準備が必要で、一定の条件が整わなければ難しいと思います。

宗教団体における「修行」はね。本来は自身の意思で行われるものです。

厳寒の時期に滝に入るなんて普通の人ならやりたいわけがない(笑)。寒いどころか痛いですよ。

たった数分間、滝に打たれただけで体温は急速に下がります。映画やドラマの影響で盛大に水が流れている所をイメージしがちですが、大量の冷たい水を浴び続けたらあっという間に死に至ります。

あれは夏場とか演出のあるドラマだからこそできるものであって、ああいった映像を真に受けて安全管理を怠れば、即、死に直結しますよ。そんな甘いものではない。

本来の修行においてはね。事前に十分に準備をしますし腹を括ります。

滝行は願掛けとか自身の意思を固めるために行われるものです。除霊なんぞには使いません。自分の弱い意思を修行や修養によって強めて、新たな目標に向かう為に用いられるものです。

自分自身が覚悟を決め、腹を括って寒さや痛さ、苦しみに「負けない!」と思って望むからこそ、脳内のホルモンも活性化されるのです。

それも「いきなり数千回」「長時間」ではない。徐々に身体と心肺機能を慣らし、やっと辿り着くものを女子中学生に押し付ける自称指導者とか親が頭がおかしい。

強引に放り込むから「死者」が増える

神戸市 布引の滝 写真修行の第一歩は「修行の内容をよく知る」ことです。

滝行に危険があること、寒さや辛さも含めて内容を経験者から聞くこと。それで逃げたいとか、やっぱり辞めたいと思う場合には無理はせず、他の修行や体力の回復、心身の増強に勤めて「時期」やタイミングを待つこと。

自身の「心」が高まる瞬間を待つのです。それすらも修行。

誰かが対象者を上から目線で「ともかく泳げ!」「毎日、滝行をしろ!」「それで治る!」と怒鳴りつけるのは誤りです。それでは覚悟も準備する期間もない。

下手をすれば長期間部屋に引き篭もってたり運動もしていなくて体力もない。そんな子をいきなり海に放り込んだり、縛り付けて水なんぞ浴びせたら、そりゃ死にますよ。

トラブルの解決を焦る余りに過激な方向に走る親とか、そういった連中(戸塚ヨットスクールのような)を崇める人がいますが、それは自分が当事者ではないから言えることです。

なんの準備もなく、自分が実際に「海に突き落とされる」側になったらたまりませんよ。

心の準備をさせること。自身にやる気を出させること。覚悟をさせてから「修行や苦行」厳しい競技に参加させること。それが精神修養やトレーニングの基本です。

何の準備も覚悟もなく、海から突き落としたり滝行をさせるのは人殺しと同じです。親であるならば、人殺しを他人の手を借りてさせて、良心の呵責(かしゃく)から逃れるのはダメですよ。

自身では手が下せないから修行とか厳しいカリキュラムで有名な学校、まして「除霊」の名を借りて我が子を責め殺してはいけない。

そんな手法に頼るくらいなら、普通に自殺させてやるか食事や身の回りの世話を絶つほうがよほど親切です。少なくとも親自身が「人殺し!」と周囲や我が子に罵られ詰られる覚悟をして、現実と向き合っていることになりますから。

子供としても、そのほうが満足ですよ。少なくとも怨むことくらいは出来る。

見ず知らずのインチキ坊主とか、妙なスクールの鬼教師や鬼教官、妙な宗教の教義に責め殺されるのではなく、自身の親に、きちんと向き合ってもらって始末を付けてもらえることになるのですから・・・。

辛くとも悲しくとも、そっちのほうが遥かにマシなんですよ。

心の準備もなく、体力的な余裕もないのに「滝行」をやらされる。嫌で仕方ないものを「もう少しやれば効果が出る!」とずっと引っ張っても、脳内ホルモンなんてなかなか出ませんよ。

それは施設の運営者にノウハウや経験がなく、修行とかトレーニングとか「除霊?」なるものを勘違いしてるから起こるのです。

確かにそういった手法で改善する例も若干はあります。ありますが、それはごく少数になるでしょう。残りは体調不良で死んでしまうか、精神的な変調や崩壊を招きます。

おかしな手法、強引なやり方で「脳内ホルモン」を分泌しても、自立性や自発性は生まれません。結果としてカルト宗教の操り人形が出来上がるだけです。そんなものでは治ったとは言えない。

それを望む親は子供のためなど考えてなくて、自身の保身のためにやってるだけです。

手順を踏まんかい、馬鹿者が・・・

海女のいる風景 写真集例えばですけどね。

日本古来からある「海女さん」には男がいません。女性のほうが皮下脂肪が厚く、練習すれば心肺機能も強化できるため、男性より長く何度も海に潜れます。

その海女さんでも海に浸かったあとは長時間、たき火にあたります。暖をとる為の小屋を作りそこで火をくべ(燃やし)熾火を作って身体を温めます。

遠赤外線で長時間、身体を温めないと海に潜った時に低体温症に陥って、意識をロスト(失う)します。瞬間でブラックアウトしますので、そのまま海の底まで落ちていって死亡します。

休憩小屋で休んでいる時にもね。みそ汁とかかす汁などを飲んでいます。

食事やみそ汁に「お酒」が混ぜてある例も多いです。

運動量が多いので水分、カロリーを補給することと「塩分」を補充しておかないと、前出の「ブラックアウト」が起こりやすくなるのでその予防でしょう。先人の優れた知恵ですが、そういった世界でもそれだけの準備や予備知識が必要となります。

何も知らずに「海にだけ入ればいい」のではないのです。本当に危ないし、間違えると死んでしまうので先輩や年配層から慣習も含めて習うのです。

滝行においてはね。まともな所なら真っ先に呼吸法を習うと思いますよ。

口を開けろとか、上を向けなどとは絶対に教わりません。死んでしまうから。目の前で手を組むか合せて経を唱えるのは、そうすることで鼻で息をするようになりますから。あごを引けと教わります。それが鼻や口からの水の侵入を阻むことになりますので。

大量に水の流れる滝を避けるのは、水に流されて死んでしまう事故を防止すると同時に窒息や水死を免れる為でもあります。

「心構え」があってね。ご本人に「信心」があるのなら、念仏や真言、経の一つくらいは自然に唱えられるでしょう。一心不乱に唱えろと教わるのはそれが結果として身を助くから。信心が強ければ、意識が朦朧となっても唱和は辞めません。唱えている間は倒れませんし、水死もしないで済みます。

経験則から生まれた慣習でしょうが、その慣習には身を護る多くの知恵が含まれています。

新しい修行者には熟練者が寄り添い、意識が遠のいて倒れそうになれば励まし、限界だと判断した場合には手を引いて安全な場所にまで移動するんですよ。

それが必要な「手順」です。

底の浅い、自称宗教家、自称指導者が増えましたね

空手 アイコン本来は何かに向かう為の「覚悟」や、心の準備、基礎体力、勇気や度胸を身に付けさせたり、勉強させる為に宗教や施設があるのです。

覚悟や心の準備が整っていない修行者は、参加させないのが本来のルール。面倒くさいので「とりあえず、放り込んじゃえ!」はやってはいけないんですよ。

繰り返し増すけどね。なんの準備もなく、いきなり苦行とか荒行、厳しいスポーツや遠泳に放り込めば死人は出ます。自殺であれ事故死であれ必ず、「何度でも」「何人も」出ることになります。

何らかの修行や荒行、厳しいトレーニングをやるならばきちんと手順、準備を踏まなければならない。それを怠って死者を出した施設や宗教を利用したり信用してはいけませんよ。

そういった連中を安易に崇めるのは「自分の手を汚したくないから」。単純にその一点だけです。手に余る我が子で、自分の生活に支障が出るし、自身の手で殺せば罪が付き纏うから、そういった荒事を得意としてる連中に預けて責任を逃れているだけですよ。

少なくとも私はそう考えています。

最近は本当に底の浅い宗教家もどきとか、自称指導者が増えましたね。残念なことです。

高度情報化社会でネットで簡単に情報が漁れるようになったのも、トラブルの拡大に繋がっているように思います。誰かの物まねとかどこかの良い部分だけを盗用して、さも自分が経験があるとか素晴らしい技術を持っているかのように振る舞う連中が増えてしまいました。

私自身は自分の部下とか仕事仲間、練習相手の後輩に「何々をしろ!」と命令したことがありません。唯一の例外としては私の兄くらいでしょうかね?

「データーベースの勉強をしろ!」と怒鳴ったことはあります。これは相手が身内で、しかも私と一緒に仕事を受けていて納期が決まっているのに甘いことを繰り返すので、私がキレたのです。

面倒で手間でも、本人の自主性に賭けるしかない。

その手順や手間を省くならそれは洗脳へと近づく行為でもあります。私はそのためのノウハウとか知識が十分にあるからこそ、説得やカウンセリングに時間をかけるようになりました。

簡単で楽な方法に頼れば頼るほど、後になって余計なトラブルになったり、自主性自立性のない子供に育ってしまって、収拾がつかなくなることを経験で知っているからですね。

信心や覚悟がないのに、坊主や父親から一方的に水を浴びせられれば苦しいだけでしょう。痛い、辞めてくれと泣くだけになります。

ベルトで椅子に縛られていれば逃げることもできない。抗う時に上を向けば多量の水を飲みます。報道では肺にまで水が入っていたとのことですから、相当、苦しかったと思います。

このような被害、虐待が何度も繰り返されていることに怒りと悲しみを覚えます。宗教とか除霊などの名を借りた殺人が、今後一つでも減ることを願ってこの文章を綴ります。

亡くなられた若い命、まだ中学生でしかなかった彼女に深い哀悼の意を表します。

2011年10月02日

谷口信行