呪いはマイナスのプラシーボ?

2017/02/08改訂
2002/05/02初稿

我(われ)の心に棲まう鬼

※この文章が最初に書かれたのは2002年5月02日です。2017年のリニューアルで一部、時代背景にあわせて修正を行ってあります。

先日、テレビ番組を視ていて驚いきました。異なる局なのですがまったく同じ企画で、同じ内容を放送していたからです。微妙なニュアンスこそ異なりますが趣旨は殆ど同じです。

呪いで「人が殺せるか?」といった内容でした。

まあ、タイトルや内容そのものが視聴者のインパクトを求め、強烈な印象を与えるように煽ったものであるのは明白ですが・・・。

最近は冬でも怪奇特集などで煽っています。以前は怪談噺など夏と相場が決まっていたのですけどね。

雑誌やテレビ等も含め、季節感はなくなっていますね。厳しい世界なので仕方ないんでしょうが、数字が取れるなら形振り(なりふり)構いません。どこかの局で何かの企画が当たれば、それに近い内容が次々に現れます。

似通うことなら「たまたま」ということもありますが、タイトルから内容までそっくりそのまま企画がかぶる、というのも珍しいでしょう。いったい、どっちが先に企画したんでしょうね????

以前、映画でもこれによく似たことがありました。(アビスとなんでしたっけ?)両方の映画共が、深海に人類とは異なる他の文明があって、トラブルに見舞われた登場人物がそれに救われる、といった内容です。

これは企画段階で他の映画会社に内容が漏れてしまい、それを双方がそのまま映画化して公開時期がかぶった、というものでした。

普通はどりらかが諦めるのですが。それも後発の映画(物まね、もしくは盗用したと噂された)のほうが出来が良かった、といういわく付きの作品です(笑)。

面白いというか、驚きますよね。

まあ、テレビや映画関係ではよくあることなのかも知れませんが・・・。日々の数字に追われ、生き馬の目を抜くとも言われるテレビ業界関係では、そのようなことも当たり前なのかもしれませんね。

私は「たまたま」その両方を視ました。

プラシーボ効果について、呪いと重ねて考証していました。

どちらか一方だけなら気にしませんでしたし、ここでわざわざ書く必要ももなかったのですが、そういった内容が何度もテレビ番組で流されると強い偏見を生むでしょう。

少々気になる部分がありましたので、歴史背景を交えて解説を試みます。

丑の刻参りの起源

丑の刻参りについて番組では触れていました。丑の刻参りとは一般的には「呪いのわら人形」として知られている手法です。

この手法の原点になったのは、平家物語の剣の巻に出てくる宇治の橋姫(はしひめ)という女性の話です。起源はとても古く、今から一千年も昔の話です。

簡単にだけ解説しておきますが、平安時代、公卿の女が男に捨てられたことから物語は始まります。

当時の恋愛は現代とは大きく異なります。直接対面や相手の顔を直接みる機会などはなかったのですから・・・。現代においても、アフガニスタンやイスラムの女性が顔を隠しますが、日本も平安時代は御簾(みす、一種のすだれのようなもの)や衝立(ついたて)ごしにしか相手を伺い知ることはできませんでした。

写真もビデオもインターネットもありませんからね。噂でしか相手を知ることはできません。乳母(うば)や下働きの女性、あちこちで広がる噂で相手の評判を知り、推測するしか方法がなかったのです。

ですから相手の女性と付き合いたいと望む人は、まず使者を通して文(ふみ、手紙)や歌(和歌)を何度も贈り相手からの返歌を待って、相手の家にお忍びで夜に出かけてゆくことになります。

深夜ですし現代では信じられないくらいスピードの遅い牛車です。

到着までに時間もかかったでしょう。訪ねていったおりに追い返されて恥を掻かぬよう、ラブレターを何度も贈って情を結んでおく必要がありました。

和歌を詠む(よむ)のは当時の貴族のたしなみでしたが、歌ができないことはそのままモテないとか格好良くない仕事できない人の代名詞で、それをこなせて始めて恋愛も仕事を円滑に行うこともできたのです。

今とは異なり、恋愛や逢瀬(相手と会うこと)を楽しむことに手間も暇もかかったのですよ。手紙すら往復には時間がかかりました。その手紙を何度も往復させて何週間も何ヶ月もかけてやっと出会いにこぎ着ける訳です。

ですが所詮、噂は噂です。絶世の美女とか素晴らしい女性だなどと言われても男性側が直接確認した訳ではありません。また、女性側からすれば良い縁談に恵まれたかったり有力者の後ろ盾を得たいとの思惑がありました。

父親にすれば実力者に嫁がせたいのは当たり前です。一種の情報戦ですから嘘や偽り、流言(噂)も利用して、自分達に都合のいい内容を世間に広めようとします。激しい足の引っ張り合いも記録として残されています。

当時の記録でも、清少納言と紫式部も仲はあまり良くなかったとの記述がありますね。

和歌や返歌も代筆屋がいた模様ですしね(笑)。女男共に一人でもいい歌詠みを雇おうと必死になっていました。下手をすればその時点で結婚や恋愛、下手をすれば出世にまで支障が及ぶのですから・・・。

この状況を現代に例えるのなら、相手から届いたメールでどんな人か判断しようとし、写真もないままに推測で相手を計ってしまうようなものでしょう。

御簾越しで顔も覗かせませんから似顔絵絵師も存在しません。

そこには当然、双方の希望や願望を含みます。文面から相手の見目麗しい姿を想像したり、誠実さも推し量ることはできますが決定打ではありません。

その気になればどんな嘘(代筆や成り代わり)でも交えられますし、都合によって内容を使い分けることも可能になるでしょう。

顔もみたことのない者同士が自分の思惑や立場を挟んで、勝手に噂だけで相手を推測しますから、変に期待して舞い上がってしまったり、会う前に感情が高ぶる原因にもなります。

当時の恋愛事情と時代背景

結局は駆け引きであり騙し合いでもあって。当然、もめ事や奪い合い争いも多かった、と(笑)。

会ってみて本人の印象が文章(贈られた文や和歌)と違う場合もありますし、女性の外見が噂と異なる場合もあります。また、次から次へと相手を探したりかたっぱしに文(ラブレター)を贈るような男性もいました。

そこの部分は現代と変わりません。

ですから女性が捨てられてしまったり、男が飽きてしまい通ってこなくなる場合もあった、と・・・。

現代と異なるのは女性は家から外出できません。直接訪問は基本的には許されていませんから、相手が自分の家へ通って来るのをじっと待つしか方法がなかったのです。

恨んだところで女性はストーカーにすらなれませんでした。

熱烈な和歌(ラブレター)を贈り、好きです、愛してると繰り返した相手が何の前触れもなくパッタリ、自分の元には来なくなるケースもまま、ありました。

女性側が「なぜ来なくなったんだろう?」と心配したり、「次はいつくるんだろう?」とやきもきしていると、「◯◯の大臣(陰陽師という映画では時の帝でしたね)は今、「◯◯家の姫にご執心だ!」などといった噂が家人によってもたらされる。

平安時代の女性はそこで始めて自分が捨てられたことを知ることになります。

これはいつの時代も同じですが、出会いを求めたりその関係を維持するためには時間も費用もかかりますが、終わりは一瞬です。何の説明もなく一方的に連絡が途絶え、他人の噂のみで情報が伝えられ、自分の価値がなくなったことを知るのです。

これは辛いでしょうね。まともな人なら離れるために時間を置きますが、いいかげんな人(これは昔から女男共同じです)は、自分の都合ばかりふりかざし、相手の気持ちや立場など考えないのです。

結果として深く恨まれます。当時は仕返しする方法とか女性が押しかけてゆく方法がない。家人とか舎人(とねり)や使者を立てて歌や手紙を託すくらいしか方法がないでしょう。

電話もありませんし、返事も無視してしまえば済みます。

どちらかというと、肉体関係を持った後で維持するほうが難しかったと思います。

いきなり音信不通で何の連絡も無くなる訳ですから、まあそれを素直に喜ぶ人はいないでしょう。また当時は女性に直接申し開きしたり反撃する機会もないのですから余計に腹も立ちます。

この呪法(づほう、呪い)が最初に書簡に紹介されたのは、そういった時代背景の頃です。

恋愛沙汰ですったもんだするのは平安京の時代も現代社会も変わっていません。平家物語や源氏物語などをひも解くとそんな話は幾らでも載っています。

日本ばかりではなく西洋にそういった例はあります。聖書などを眺めれば人間は古今東西、数百、数千年もの昔からあまり変わっていないようにも思います。

丑の刻参りの装束

この物語はここから意外な展開を辿ります。本来なら当時、何の復讐の手段も持たない筈の女性が祟り(たたり)を成すのです。

その後、捨てられた女(貴族だったとされています)は、貴船神社(現在の所在地、京都市左京区)に詣でて七日間こもり「生きながらに鬼となり、憎いと思う女にとりついて殺したい」と一心不乱に祈りました。

ここが女性の不思議です。裏切った男性に祟りを成せばいいものを、男が心変わりして愛している次の女を祟り殺そうと祈願するのです。

その折、「本当に鬼になりたければ宇治の川瀬に21日間浸かっていればよい」との神?からのご託宣を受け、彼女はそのお告げのままに服装を整えます。

その格好は顔には朱(しゅ、赤い色)をさし、身体には丹(に、と読みます。一説には松やにともいわれますが、これも赤に近い色です)を塗り、頭に金輪(七輪などに使う鍋などを載せる五徳)をかぶり、その3本の足にたいまつを結びつけ、両側に火を付けた1本のたいまつを口にくわえるというものです。

その格好で大和大路を風のように南に走り、宇治川にたどり着いて21日間水につかっていると、本当に生きながら鬼になって憎い女の縁者と男の親族を祟り殺した、と伝承されています。

※物語では呪いをかけられた男と女が死んだのではなく、その縁者、親族や近親者に限られています。

伝承ではそのように書かれていますが、これが後世(江戸時代)になってから白装束(白い着物に白い帯)に変化します。

元は赤い色(陰陽道などでは赤が儀式に用いられる正式な色であった)の装束が白に変化するのは、当時(江戸時代)盛んだった儒教などの影響でしょうね。たいまつも都市部(江戸や大阪、京周辺)では手に入りにくかったのか、ローソクや櫛に変化します。

白装束に白い鼻緒の一本足の下駄、頭には五徳(コンロや七輪に付いている金具)を逆さにして頭にはめて火が消えないように太いローソクをたて、柘植の櫛を口にくわえて顔に白粉(おしろい)歯には鉄漿(かねつけ、と読みます。お歯黒のことで成人した女性の証明)胸に鏡を下げます。

そして五寸釘と木づちを持ち、腰に一反(約10メートル)の白い木綿の布を巻いてたらし、それが地面に付かぬように急いで走って神社仏閣の古い大木にわら人形を打ち付ける、といった形に変化してゆくのです。

その姿で人に見られぬように7日間、丑の刻(現在の時刻だと、深夜の1時から3時の間)に神社に出かけて釘を打ちつけることができれば、願い(呪い)がかなうとされています。

当時の「呪いグッズ」の価値や価格

呪いが「あるかどうか?」は別にして、この方法を考えた人間はある種の天才でしょうね。

これは私の推論に過ぎませんが、この装束(スタイル)やこの方法は呪いを「かなえるため」にあるのではなく、依頼者(呪いの祈願者)に諦めさせたり失敗させるためにある、と思われます。

一本足の下駄で風のように早く走れる筈がありません。天狗でもないんですから・・・。

一本足の下駄は修験者が用いたものです。荒行で知られる山伏がバランスがとりにくいものをわざと修業のために履きました。

江戸時代になるとよほどの変わり者か傾奇者でもない限り身に付けたりしませんよ。勧進帳の世界です。

そもそも腰に巻き付けた一反の木綿が、地面につかないように走るなど不可能なんですよ。また当時、五徳(七輪などの鍋乗せ台)は大切な調理器具でしたし、そうそう簡単に捨てたり他の用途に用いることはしませんでした。

蝋燭(ローソク)も同様です。当時、蝋燭は貴重品ででした。一般には行灯(あんどん)が主で菜種(ナタネ)油でさえ、灯火にするには気を使ったのです。

蝋燭は現在のように石油から簡単に作れるものとは異なり、一本一本が職人による手作業でした。だから高いのです。一般庶民向けの商品ではありません。

火の消えない太いサイズの和蝋燭になれば、現在でも8千円から一万円(当時の貨幣価値ならもっと高額)もします。よほど裕福な商家や武家や遊廓、大奥でもない限り、常時蝋燭を灯している屋敷は少数だったのです。

高額であったが故に、江戸には蝋燭の燃えかすや垂れてこぼれたロウまで買い取る業者が存在しました。

石油での精製や合成はもっと後になってからです。原料は豊富ではなくアメリカでは鯨油(くじらの油)から蝋燭を作ったりもしたんですよ。

この頃(日本の江戸時代中期)からアメリカは盛んに捕鯨に乗り出していますが、明かりのための油が欲しかった(クジラが激減したのは、それが原因とも言われます。肉は喰わず殆どを捨てていました)からだ、ともいわれています。

まして、満願までには7日もあります。金額が高いからといって「蝋燭は三本のみで使い回し」という訳にもいかないでしょう。

まあそういった記述も古い文献にはあることはありますが・・・。

鏡も櫛も当時はとても貴重品です。完全なリサイクルシステムを誇っていた江戸の街は、鏡を磨いて綺麗にする職人や、櫛を直すことを生業(仕事)にしていた職人が何人もいたくらいです。

新品は高くて手が出せない。花嫁道具の一つとして親が子に渡すこともありました。

初期の頃の装束(平安時代)にはなかった道具、つまり、当時であれば皆が直して丁寧に使っていた大切な道具、女の命ともいうべき鏡や櫛を「呪いのために差し出せ!!」というのにも、意図的なものを感じます。

というか、条件を難しくして何とかそういった行為を止めさせよう、という心遣いではなかったのでしょうか?

一般の人、それも男性より収入が低かった女性が全ての道具を揃えることは簡単ではありません。当時(江戸中期から末期)この装束を呪いのためだけにフルセット買いそろえようと思えば、半年から一年、下手をすれば二年分の給料は十分に覚悟しなければいけなかったでしょうね。

一本足の下駄も簡単には売ってないと思いますよ。

女性が直接買いに行けば「呪い」に使うと自白するようなものです。

先人の知恵、呪いの手段ではなく恨みを解く鍵

丑の刻参りに対する番組(両方)における結末は「呪いが実際にあって、それはマイナスのプラシーボ効果だ」になっていました(笑)。

医者や専門家?(神主)まで引っ張り出してそう結論づけています。

これには笑ってしまいました。

プラシーボ(プラセボ)効果については、私は初期の頃からテキストやホームページで解説を加えてあります。番組で触れられていた母親が子供に与えるおまじない、つまり、「痛いの痛いの飛んでゆけ」についても、何年も前(初稿は1997年)から書かれています。

呪われている相手に通知(お前を恨んでいる、呪っていると伝えること)しないと「呪いが発現しない」ことを根拠として掲げ、だから「マイナスのプラシーボ効果なんだ」で整えられていましたね。

まあ、お気楽なというかなんというか・・・。興味本位で一部のみを抜粋してそう描けばそうなってしまうのでしょうね。実際にはマイナスの暗示効果や反応など、そうそう簡単に起こるものではないんですが・・・。

私としては当時の劇作家、いわゆるテレビや新聞の無かった時代のマスコミ(歌舞伎や瓦版)が、安全性も配慮した上(一本歯の下駄や一反の木綿を腰に巻くは後から書き加えられたもの)で大衆に受けいられるように演出した部分が過分にあったように思うのですが・・・?

どうも一面だけが突出して煽られているようですね。私が先に触れたような価格の問題、入手が難しい品物がふんだんに取り入れられている理由はどこにもありませんでした。

弱い立場の人間が恨みから安易にそういったもの(呪い)に傾倒することをいさめようとした知恵や配慮は、番組のどこにも触れられておらず、紹介されていませんでした。

丑の刻参りは江戸期に大流行したらしいんですけどね(笑)。人にみられたら呪いが返るとも言われていましたが、そんなことは聞き入れずに何度も繰り返した人もいたようですね。

後に幕府から正式に禁止令まで出されています。

悲しくて辛くて何とかして相手に一泡ふかせたい、ほんの少しでもいいから相手に自分の痛みをわからせたい、どうやってでも「自分の思い、苦しさを理解させたい」と悩む相手に、ストレートに「呪いなんかで殺せる訳がない!」などと安易に否定すればどうなりますか?

他の方法を探すでしょう? その人は苦しんだあげく短絡的にある日、突然、刃物を持ちだして相手を刺すかもしれません。その可能性は十分にあります。

何らかの痛みにのたうち、辛い思いからと相手を恨み、どうにかして仕返しがしたい、せめて何らかの反撃がしたい、と考える人に「そんなことは間違っている」と諄々(じゅんじゅん)と道を説いても無駄ですよ。

そんな理屈はご本人にもわかっているのです。理屈ではなく感情です。痛みや苦しみから感情が暴走してしまい、本人にもどうにもならなくなっているのです。

女性とか弱い立場の者でもできる、何らかの仕返しの方法が「ある」として考え、専門家(?)から「実際に行うのは難しいよ」「道具がなかなか揃わないよ」と告げられば、成功させるために必死になるのかもしれませんね。

少なくとも、その方法を試した方は呪いの効果が現れるまでは待とうとするでしょう。

しばらくは時が稼げます。高値で入手困難な物が多い。そういった道具を揃えているうちに一部は馬鹿馬鹿しくなって辞めてしまうかもしれないですね。

そのうち溜まってしまった強烈なマイナスのエネルギー(相手への恨み)が減って諦めるか、新しい恋人が辛いことだって忘れられるかもしれない。そういう可能性だって高まります。

そう考えれば難しいハードル、つまり当時は高価で手が届きにくかった道具を「呪いのために必要だ」としたことにも、先人の深い知恵と造詣(ぞうけい)がくわえられているのかもしれません。

※プラシーボ(暗示や催眠)で、呪いが可能かどうかに関しての私の考えは、この後で述べます。

プラシーボ効果について

お医者さんならわかるでしょうが、病(やまい)は気から、といいます。

前向きな人や性格的に明るい人、楽天的な人の場合には、病気や怪我からの回復や生存例は多いのに、悲観的な人や否定的な人は病状が悪化したり、入院が長引くような例もあるからです。

胃潰瘍(いかいよう)などは一晩でも出現します。胃潰瘍にピロリ菌といわれるウィルスが関連していることは最近の研究で明らかになってきましたが、精神的なストレスやショック、本人の気の持ちようで病状を急速に悪化させてしまうこともあるのです。

心因性のショックで、出血量が致死量に達する前に亡くなる方はいますよ。

ですからマイナスのプラシーボなるものが、まったくないとまではいえません。

ただ、だからといって悪い現象や病状の悪化の全てを「プラシーボ効果だ」で括られてしまってはたまりませんよ。強引過ぎます。それで全てが片づくのなら社会に医者も薬も必要ありません。

医療より占いや咒(まじない)や催眠術師? のほうが実効力を持つことになってしまいます。

確かに不眠症で悩む入院患者に生理食塩水やビタミン剤で点滴を打って「眠れるお薬を入れておきましたから」と看護士が言うと、スヤスヤと眠ってしまうことは時折あります。

では、その人に「毒薬が入っている」(さっきの点滴に入っていた)といえば、簡単に死んでしまうのでしょうか?

残念ですが、人間はそんなに簡単にできてはいませんよ。

確かに多少、体調を崩す可能性はあるでしょう。ですが全員が急変してすぐに死にますか?

そのような思い込みは人間を平面に捉えています。人の心の内側に潜む本質や反応を考えてもいないですし、そのような方向に傾く人は暗示(プラシーボも同じ)の意味をまったく取り違えていて大変に危険です。

入院していれば気が弱くなることもありますよ。恋愛でも仕事でもうまくいかないときやマイナスの思考に陥る時もある。嫌な感覚がどうしてもぬぐえず、何日も寝られないくらいに悩むことはあります。

では、それで皆死んでしまうのですか? 皆が呪いにかかったような感覚になると?

人間の持つ強さとか自浄作用、精神力やたくましさ、生命力や回復力を考慮にいれずに忘れてしまい、悪い方向にばかり考える人が錯覚すれば、そういった勘違いも起こるのでしょう。

私のホームページの読者、特に著書を読み催眠に興味があってテキストを取り寄せた方はよく考えてください。私は「どういった暗示」すなわちどういった「指示や効果」が長持ちすると言っていますか?

練習会や講習に参加したり、テキストや著書を読んでその意味を正しく理解した人なら、私のこの設問に関する解答は簡単に得られるでしょう。

小学校の頃、読んだニュース

確かにあるシュチュエーションにおいて、プラシーボ(プラセボ)効果は絶大な効果をもたらします。

これは何十年も前にアメリカで実際にあった話らしいのですが、末期癌にかかった宇宙飛行士に歯磨き粉を飲ませ「これは新しくできた、癌の特効薬だ」と暗示を行った、という逸話が残されています。

当時は今とは異なり、本当に少数の人間しか宇宙飛行士には選ばれませんでした。国家的なプロジェクトですから倍率は天文学的な数字でした。

現在も難しいですが、更に競争率が高かったと言われています。ある分野に突出するのではなく、医療も含めた幅広い知識を持つ人が、スペシャリストとして宇宙飛行士になり得たのです。

訓練の途中でかなり専門的な知識、医学的な勉強も要求されますので治療に際し中途半端な嘘などは通用しません。末期の癌にかかっていた彼は、自分の病状がよくないことを十分に把握していたと思われます。

その歯磨き粉、主成分は炭酸カルシウムなどに過ぎない偽薬が、劇的な効果をもたらしたそうです。

真偽のほどは定かではありませんが・・・。今から何十年も前、海外のニュースとして小学校で貼り出してあった記事です。海外のニュースや情報を、先生がどこかの雑誌や新聞から切り張りして簡単にまとめたものが、毎週貼り出されていました。

そこには当時、海外で本当にあった不思議な話として、偽物の薬を飲んだのに癌が治ってレントゲン(当時はCTスキャンなどありません)に映っていた影はなくなり、一時期は回復したと報道されていました。

当時、私は小学校の4、5年生の頃です。私の著書を読んだ方はご存知でしょうが、私が初代、引田天功に憧れ催眠に興味を持った歳でもあります。様々なことに興味を持ち、図書館の本から壁新聞に到るまでどんなものでも読み漁っていました。

その頃に読んだ内容に驚き強い興味をひかれましたから、奇妙に鮮明に記憶に覚えています。

マイナスのプラシーボ効果とは?

実は、この話には後日談があります。

病巣の影が消え、癌が治ったことに気を良くした医者が彼(宇宙飛行士)に「実は、あれは癌の薬などではなく、ただの歯磨き粉だったんだ」と教えてしまったそうなんです。

すると、しばらくして癌が再発したんだそうで・・・。

ここからは私のただの推測に過ぎませんが、よほど病後の経過が良かったんでしょう。完全に癌の影や病気の兆候はなくなり「まず大丈夫だ」と思えるほど経過が良かったからこそ、医者も油断したんだと思います。

ですが、やはり本当のことを教えたのはまずかったようですね。癌は再発してしまい、今度はどんな薬をどういった暗示(プラシーボも一種の暗示でしょう)を与えても効果がなく、そのまま亡くなったんだそうです。

子供の頃に読んだ話ですから、本当かどうかは怪しいですけどね。

ただし、これが作り話だとしても、私のような仕事に携わる者としては興味深い話です。当時(今から30年以上も前)から偽薬の効用について、考えていたグループがあったという証明になりますから。

一時は好転し、良い方向にしか効かなかった暗示(プラシーボ効果)が、ある時期やある言葉を境(さかい)にどうして反転し、マイナスの効果として働いたのでしょうか?

では、その彼(宇宙飛行士)の中では、いったいどういった心の動き、心理的な葛藤(かっとう)が行われていたのでしょう? 彼にその薬を与えた医者のどの言葉が彼を励まし、反対にどういった言葉や対応が彼の生命力を奪い、病からの回復を難しくさせたのでしょうか?

興味はありませんか?催眠や心理学、暗示や臨床医療を学んだものならきっと興味がある筈です。

話の真偽のほどは定かではありませんが、そういった話が何十年も前に海外から情報としてもたらされ、それがどこかに載っていたということは、少なくとも類似する出来事か、そういった推測をさせる何らかのエピソードが当時にあったのでは? と私は思うのです。

こういった逸話はプラシーボがマイナスに働くかどうかを考える時、とても大切なことだと思います。

もし、こういった部分に興味のある番組関係者は過去の事例、事実関係を調べてみてください。

女性が一本下駄で真っ暗な山を駆ける?

番組で取り上げていたのは「呪い」は相手、つまり恨みを買って呪われる相手に「呪っている」とわからせることで発動する、になっていましたね(笑)。

もし借りに昔の呪いが「相手に意識させる」ことで発動する、としましょう。

道具を揃えるのは高額で、当時入手が難しいものであることはすでに述べましたよね? また、呪いを行える場所は限定的です。

目立つ場所(神社)にある大きなご神木などを選ばなくてはなりません。わら人形を掲げて釘を打ち、場合によってはそれを相手に直接、手紙で通知することもします。

呪いに実効性があり高い効果を発揮するとするのなら、わざわざ相手にそれを告げたりわかるように行う必要があるのでしょう?

内緒でやったって同じに結果になる筈です。

なのになぜ、高いリスクを犯して何日も呪いを行い、相手に知らしめる必要があるのでしょうか?

私は、その自分で背負うリスク、つまり精神的な負担や金銭的な負担、呪いを行う者の背負っている重さや思いそのものが「呪い」つまりマイナスの暗示の発動のために重要なファクター(要因)だと思っています。

先にも触れましたが、当時(江戸でも初期の頃の平安でも構いません)呪いのためのグッズを買い揃えるのは大変でした。また、手法や方法についても尋常な方法ではなく実現はかなり難しいものでしょう。

お告げに従って「宇治川に二十一日間漬っとけ」ったってあーたね・・・。途中で死んでしまいますよ。食事はどうするんですか? トイレは? 神域にいるのに垂れ流しにしていいんですかね?

「七日間、深夜に一本歯の下駄で風のように走って神社に行け!」も、そうそう簡単なことではありません。

このコーナーを読む皆さんは山道を歩いたことがありますか?

つい先日、神戸の六甲山に紅葉の撮影のために登ったのですが。帰る時間を間違えてしまい日がとっぷりと暮れました。近くを滝が流れているもので。

その滝音が真っ暗な中で轟々と響く。スマホのライトなんかじゃ足元を照らすこともできないので、久しぶりに「闇夜って怖いんだな」と思いました。

当時の貴船神社ですよ? 街灯も何もない。田舎のうっそうと茂る木立の中を、深夜の2時、3時に明かりもないまま歩いてみれば、その恐さとか暗さがどれくらいなのかわかると思います。

山の中ですし深夜になれば真っ暗に近いでしょう。少し郊外に出れば人家もまばらで逃げ込む場所すらありません。

現代とは違い神や魔物、鬼も信じられており、神社(山)は一種の聖域でした。だから太い樹がそのままの姿で保存され何百年と切られずに残されたのです。

そこに一週間、毎日、通えますか? 五徳を頭に括り付けて? 山道で真っ暗な中を一本下駄で走る?

盗賊(野ぶりとも言う)や山賊もいましたよ。平安京も江戸の街も一歩、郊外に出てしまえばとても危なっかしくて、夜間に治安が十分に行き届いていたとは到底言えなかったのです。

アニメの一休さんにでも山賊は出て来ます。寺社奉行はその頃の名残り。

伝わってゆく「噂」

当時は夜中にうろつく人などいなかったんですよ。今の時代とは違う。暗やみは怖いものです。

一部の遊び人(牛車で女の家に通う人)か酔狂な人、盗賊を除いて危ないので出かけることはありませんでした。特に女性は少ない。男なら夜ばいとか夜歩きもあり得ますが、夜鷹とか商売であっても深夜は避けました。

今とは闇夜の深さが違う。固く戸を閉ざし寝てしまうのが一般的です。そこを髪を振り乱し、死に装束に身を固めた女性が一心不乱に駆け出してゆくのです。

それは恐い光景だと思いませんか?

見た人は心底驚いたでしょうね。今のようにテレビとかビデオとか映画が発展していた時代ではない。写真もないんですよ? 胆(きも)を潰すというか腰を抜かしたでしょうね。それはいつしか、まことしやかな噂となってあちこちに広がっていった、と思います。

それはそのうち、呪われている相手にも届きます。「○○町の○○さんの娘が男に振られて物狂いになった」とか「呪いをかけて相手を取り殺そうとしている!」との噂になったでしょう。

これは恋愛沙汰だけではありませんが、ごう慢な人は他人を振り返りません。踏みつけにしても気にしないのです。相手を身勝手に利用して当たり前だと思っていますから、苦痛を与えて何とも思いはしません。それどころか、やがてそのことそのものを忘れてしまいます。

何度も迷惑をかけ、大勢に嫌な思いをさせても平気でいられるのはそれが悪いとは思っていないからなんですよ。自分のためには他人が踏みつけになるのは当然だと思っており、自分は都合よく忘れられるからなんです。

その「忘れていた」相手や付き合っていたり、仕事で利用して踏みつけにして当たり前のように思っていた相手が「呪いのために鬼になっている」との噂が、遠くから届きます。

最初は笑うのでしょうね。「どうせ、たいしたことはできない」と・・・。

「その程度の奴だから、利用されたし、捨てられたんだ」などと、のたまう事になります。

そういった男(呪われている相手、場合によっては呪われているのが女性であるケースもアリ)自分がやったことを都合よく歪めてしまったり、簡単に忘れてしまうくらいですからそんな物どうってことはないんですよ。

相手が死のうと生きようと自分とは関係ないとも思っています。

多少噂が伝わったり、相手が何かやっているらしいと聞いても「少々、面倒だな」「早いうちに潰してしまおう!」くらいにしか思っていません。むしろ、自分とか関わりのない所で「いっそこの機会にあっさり死んでくれればいいのに」程度に捉える人が多いでしょうね。

そういった人の多くは、怨霊とか呪い、咒(まじない)の力などまったく信じてはいないでしょう。

人の怨念、妄執の力

呪いを用いるなど本来は意味がありません。

そういうものを信用していない相手には徹底的に馬鹿にされる方法なんですよ(笑)。

それは平安の時代だろうと、江戸時代だろうと現代だろうと変わっていません。そんなものを真剣に恐れる人は、最初から誰かを踏みつけにして利用したり、他人を利用して面倒なトラブルなど起さないのです。

神仏を尊び呪いを恐れる人なら、誰かと別れるにしてもきちんと手順を踏むでしょう。何らかの災いが自分や家族に降りかかることを恐れますから・・・。

そういったものなど信用せず他人の痛みがまったくわからないからこそ、そういった行為を平気で行う訳です。だから、笑っていられるんですよ。

ところがね、人間の妄執、意志の力は物凄いのです。

鬼になった人間、すなわち呪いを行う人は、不可能とも思われる荒行を毎日寝食を忘れて打ち込み、周囲のとりなしや仲裁、蔑みや哀れみに関係なく徹底して満願の日まで行おうとします。

なにしろご本人は願い(呪い)がかなうなら死んでもいい、と思っていますから。自分の命と引き換えに相手の命をも奪おうと真剣に考えます。

どう考えても不可能で、むしろ恨みや呪いを諦めさせるために考えられた方法を疑ったり考え直すこともなく、自分の思いだけを込めて一心不乱に行います。

それは流石に怖いでしょう。

いつかその状況が噂話となって周囲からジワジワと伝えられるようになります。得意先とか共通の知人、友人を通じて何となく広がります。

その時には恨みを買ったご本人が行ってきた、数々の愚かしい行為や非道をなどもセットになって皆に伝わるのでしょうね(笑)。広がった先が一人なら笑い話かもしれないですが、複数になると大変です。「あいつは酷いやっちゃなぁ」程度には受け取られるでしょう。

それはやはりプレッシャーになるでしょうね。どんなに厚顔で図々しく、卑怯な人でもまったく気にしない、どうでもいいという訳にはいかないと思います。

昔の文献にはね。丑の刻参りや呪いを辞めてもらおうと家来を遣わしたとか謝罪をしたって話も多少は残されていたりするんですよ。

最初から鬼だった訳ではない

余談ですが、恨みと妄執を持ち、鬼となってしまったり相手に仇(あだ)成すほどの強烈な反応を示す人の多くは、元々、優しさと悲しさを持ちあわせる例が多いのです。

(陰陽師、という映画でも描かれていましたが)男性でも女性でもそうですが、過去の記録に「呪いを成した(なした)」とされている人の多くは、非業の死を遂げており周囲(民衆や物語の書き手)の同情や涙を誘います。

後に「祟りを成した」と言われる人の多くが生きていた頃に自身の能力を正当に評価されることなく、時の権力者や周囲に思惑に利用されたり使い捨てにされたようなケースが多いのです。

温情があったり、地域住人に優しかったり、何かを守ろうとして権力闘争に破れたり、理不尽な濡れ衣を着せられて処罰されている例もあります。

だからこそ、周囲に亡くなったことを惜しまれ悲しまれます。

どんな罪状を着せられようと、その人の人柄や功績、人徳を偲んで「あぁ、◯◯様が亡くなった」「きっと帝や都を恨んでおられるに違いない・・・」と言われるようになります。

時代と共に転じて怨霊から格上げされて神様になっている例が幾つもありますね。

有名な所では平将門や菅原道真などです。

こういった人達も素晴らしい和歌や文章、政策を遺しています。ただ単に都に帰りたいと望み、それ以外に何も言わなかった例も多々あるのです。

貴人(貴族や天皇)や武家の子供にもそういった例があって、その願いがかなえられずに非業の死を遂げた後で祟りを成したとされるのです。

地震、雷(かみなり、いかづち)や疫病、大火や時の権力者の失脚などですね。

正当な能力や実力を評価せず優しさを踏みにじったり、利用して徹底的に貶める(おとしめる)行為を行ったからこそ、その怨みは根深く「きっと祟る」と周囲には受け入れられたのでしょうね。

最近になって現実に起こる復讐劇や殺人などにおいてもそれは同じで、ご本人に優しさや愛情があったからこそ、裏切られたり利用された時の怒りや苦しさも格別になり、その思いが衝動となって本人を突き動かします。

元の人格が温厚であったり、善意で関わった人とか愛情を注いだからこそ激しい行動に駆り立てることとなります。人間は妄執に囚われると簡単には出てこれません。強い思いと優しさがあったからこそ、その妄執は強まりその身と心から引きはがすことができなくなります。

すると、その全てのエネルギーは怨みを晴らすためにだけ向けられます。

そうなると、自分の人生もお金や仕事やご主人(結婚している人も含まれます)今まで大切にしていた子供もまったく関係ありません。

怨みを晴らし、相手に祟る(災いを成す)ことだけがその人の生き甲斐となるのです。

古(いにしえ)から言われる「鬼」がどういうものかはわかりませんが、考えてみれば、この姿がかなり近いものでしょう。人はその意志で、鬼にもなれます。

リスクなしで適うものなどない

相手を呪い殺そうと思ったり、相手に何らかのマイナスの情報を与えて仕返ししたいと思っても、それは簡単ではないでしょうね。

丑の刻参り、という非現実的にも思える手法が巷に浸透し、それで願い(怨み)がかなう、晴らせるという噂がまことしやかに広がったのは、そこに背負うべきリスクがあまりにも多かったからです。

必要とされる道具は全て高額で手に入れにくいものばかりです。行う手法は難しく、下手をすれば命がけです。暗い夜道を出歩けばどんな人が待ち受けているかわかりません。

半端な覚悟でやっていたら襲われる可能性も高いですし、呪っている相手が誰かを雇って待ち伏せさせることだってありますよ? 女性と使い捨てにして平気な男です。仲間を雇って襲わせるくらいはやりかねませんよ。

厚顔で他人を利用してはばからない人、周囲を振り返らない人は図太いでしょう。誰に何といわれようと平気ですし、嘘も偽りも当たり前のように行います。

自分の都合で世の中は回転してると思い込んでいますから、他人に配慮する必要すらないのです。良心の呵責に悩むこともなく他人の言葉に傷つきません。

そういった人間に怨みの言葉で情報を与えても、受け入れる(影響を受ける)ことなどしないでしょう。

ところが、呪いだけは違った訳です。

何度も繰り返しますが、行う側は命がけです。それこそ本当に死にかねない方法ですから・・・。それを行い、願い(呪い)を果たそうとしています。周囲のとりなしや制止を聞くことはなく、自分の全てと引き換えに相手を道連れにしようと本気で願うのです。

その思いは強烈でしょう。

その状況がどこかから伝えられてしまえば、流石に気分が良いとはいえないでしょう。知らないフリばかりも決め込んでいられなくなります。事実、江戸時代の文献には怨みから毎日、神社で呪いを行うようになった女に男が謝り、何度もとりなしに行ったとの記述が残されています。

呪う側が真剣で死んでもいいと本気で願い、自分の人生の全てを失うことを恐れずに何もかもを懸けるから、恐れをもって周囲に受け入れられ相手に届くのではないでしょうか?

おそらく半端にやっていたら真に受ける者など誰もいないと思います。

マイナスのプラシーボなるものがあるのかないのかは知りませんが、それくらいのリスクを背負ってやらない限り効果などないと私は思いますよ。

覚悟を持ってあなたが懸けるものは?

当時の呪いとはね、現代にようにどこかのショップやインターネットで呪いグッズ(わら人形)を買い、気に入らない人を「死ねばいいんだ!」などとお気軽に願うのとは、レベルが違うんですよ(笑)。

何が必要かを調べ、全部を用意するだけでも大変です。

一時は幕府が法律で禁じたくらいなんですから。書籍も殆どありません。口コミです。知っている人を探す所から始めなければなりませんし、その人に口止めする必要もあります。

安易に形式とかスタイル(服装や道具)だけを物まねするのではなく、当時の女性の立場や呪いを行おうとした側の背負ったリスク、時代背景を比較しなければその意味などわからないと思います。

当時は他に方法がなく、どうしても怨みを捨てられなかった人は、相手を呪うことに自分の人生そのもの、全身全霊を懸けたんだと思われます。

あなたに自分の年収を何年分も捨てる覚悟がありますか? その後の人生を捨てられる?

おそらく江戸や平安の時代の女性は、そこまで懸けたのではありませんか?

私の元にも時折、おかしな依頼が持ち込まれます。相手に仕返しがしたいだとか、恨みを晴らしたいので協力して欲しいだとか、「催眠で」合法的に手伝って欲しいなどです。

そういった申し出を行ってくる人は、誰かを怨んでいて「何とか仕返しがしたい」などと私にメールで送っきますが、よく聞いてみると同情出来ない例が多い。

自分が先にトラブルを起こしていたり、単なる不倫で後出しジャンケンだったり。奥さんや子供を誹謗中傷したり逆恨みのケースも多いですね。

はっきり言えば、たいした恨みでもないことがある。

そういった人に限って家族や仕事に恵まれて収入も安定していますし、自分は何も失わず安全な位置にいます。ちょっとお小遣いを出して「催眠術を使って相手に復讐を」って言うのはお手軽すぎるでしょう。

何かを失うことも自分の人生の何かを懸けることもせず、ただ単に普段の言動で「相手が気に入らないから」程度とか、趣味やアイドルの話で少々何かで揉めた程度で誰かに「死んでくれ!」と言うのならずいぶんと身勝手な話です。

相手にだって家庭も仕事も家族もあるのですから。

ましてそれを赤の他人である私にわざわざ手伝えというのですか? そこまで私が手伝ったり、背負わなければならない理由はなんでしょう?

これもはっきり言いましょう。

「あなたの全てを懸けるなら」

願いは適います。恨みは晴らせるでしょう。そのつもりで来ている人なら話くらいは聞きます。

それくらいの覚悟がなければ止めておくべきです。

穴は幾つあってもおかしくはない

自分が怨みや怒りに苦しんでいるから「痛みを忘れさせて欲しい」「怨みを忘れさせて欲しい」といってくる人もいますが、それも難しいでしょう。

私自身が時折そういった感情に囚われ苦しむことがあるからです。

私にも色々ありますよ。楽に暮らしていて悩み事がない訳ではありません。激しい感情を持て余し、寝られない日が何日も続くくらい苦しむこともあります。

人間の感情はそんなに簡単なものではない。確かに一瞬で何でも忘れてしまったり、諦めてしまえるなら悩み事はなくなるでしょう。ですが、いつまで経っても同じ失敗を繰り返しますし成長もしなくなります。

何かで困る都度、催眠や私に頼るならその人は徐々にダメな人とか努力しない人になりませんか?

願いをかなえてもらう為に、次々に神社や仏閣、新興宗教団体にお布施や献金でもしますか? それで誰が幸せになれるのでしょう? 今度はもっと酷い人に騙されたりしませんか?

施術を頼みに来た私が酷い人だったら? 都合よくお金だけ盗られませんか?

私としてはそのお気軽な感覚が、とても不思議に思います。

番組では最後に「人を呪えば穴二つ」という諺(ことわざ)を引用していました。

他人を呪って「穴に落ちろ」と願っていたら、自分の前にももう一つ穴があって結局そこに落ちてしまう、というものです。他人を羨んだり、安易に呪ったりしないよう戒めたやはり先人が考えた優れた教えの一つでしょう。

ただ難しいでしょうね。自分の全てを賭けて本気で仕返しを願う人は、自分も一緒に穴に落ちるつもりでいますから・・・。穴が何個あろうと関係ありませんよ。地獄に一緒に堕ちる覚悟をした者には、穴二つなんて戒めは効きはしません。

その人が自分だけ助かる意志があれば正しい諌めの言葉ですが、捨て身の人には通用しません。むしろ覚悟を決めた人には望む所です。喜んで引きずり込むでしょう。

人であれば激しい感情も持ちます。苦しい時もあり、許せない相手もある。それがなくなれば人間ではなくなりますから。

相手のあまりにもいい加減で卑怯なやり口にどうしてもそちら(復讐)に傾く場合もあります。

私はそれを全部否定したり、したり顔でわかったような言葉を並べ「あなたは間違っている!」などとほざく、インチキ坊主のようにはなりたくないですね(笑)。

私は、「呪えば穴が二つあるぞ!」などとは絶対に説かない。

どうしてもと相手が望むなら「一緒に地獄に堕ちる覚悟をしろ」と説きます。

懸けている「重さ」がまったく違う

私は何もかもを懸ける怨む人、呪う人に「止めろ!」とまではいえません。

人間であるのならそういった感情を持て余すことはあるからです。好きでそうなってしまうのではなく、仕方なくそちらに近寄ってしまう場合や抜け出せなくなる時もあると思います。

その全てを否定することはできませんし、間違いだとは言いきれません。人間であればどんな人にも起こりうることです。

精神的な悩み事を抱える人の多くは自らが望んでそうなる訳ではないのですから。

それこそ、血を吐くような思いで感情をぶつけていることもあるのでしょう。呪いがかなうとは思わず、悔しかった思い、辛かった思い、相手の理不尽さや身勝手さを忘れることができず、怒り悲しみと苦しさからそういった行動に出ることもあると思います。

だから私はその全てを否定することはできません。

ただし、忘れないでください。

誰かが死ぬように願う、ということはね。代わりに自分も多くを失う、ということなんですよ。

誰にも家族や仲間、友人もいるのでしょう。大切に守ってきた「何か?」もあると思います。捨て身でその願い(復讐や呪い、怨み)をかなえる、ということは、同時にあなたが大切に守ってきた多くのもの一緒に失う覚悟が必要になるのです。

恨みに完全に囚われてしまうと、優しさや思いやり、その人の本来持つ多くの特性、感情の一部もそのまま失われます。

世界各地で起こる自爆テロが幾重にも巡らした厳重な警戒にも関わらず成功を収めてしまうのは、そこに命とか心がないからです。

怨みを晴らし、目的を果たすために何もかもを賭け、命を捨ててかかってくる人にはどうやっても対抗する術がありません。全てを懸ければ必ず成功します。

一人でダメなら二人目を、二人でダメなら三人目を送り込んでくるでしょう。テロとは名ばかりで圧政や差別に対抗するために命を懸ける者もあります。

確かに死を武器に何かに望むのは間違っているのでしょう。ですが、その死を武器にしなければ対抗できない相手もある。復讐を誓う誰かにも、これまでを一緒に過ごした愛する家族や友人、大切に思う誰かとの生活、本来は夢や希望もある筈なのですよ。

それを「懸ける」から、同時に一瞬で「全てを失うから」望みはかなうのです。

繰り返しますが、全てを賭けるのなら願いはかなうでしょう。結果として多くを失うことにはなりますが・・・。

相手の死を真剣に願うのなら、自分も死ぬだけの覚悟が必要となります。

社会の良心、反省や弔い(とむらい)だったのでは?

呪いが「実際にあるかどうか?」は私にもわかりません。

私自身、過去に不思議な体験は何度もしています。絶対に会う筈のない人に会う筈のない場所で会ったり、知る筈ない事実を夢やお告げのようなもので教えられたりと、常識とか理屈では説明がつかないことも数多くあって自分がビックリしたこともあります。

ですから、現在の科学とか常識が全てを推し量れるか? と言われれば自信がありません。そういった意味では呪いも完全に否定するには疑問も残るでしょう。

ただ、歴史や過去の事例を調べて全体を考えてみれば、こういった推測は成り立ちます。

呪いとか祟りが「あるかどうか?」は私にもわかりません。ですが、「呪いがあって欲しい」と願った人達や、それが「あった」と考えて記録に残した人達は昔から大勢いた訳です。

そうでないのなら、あちこちの古い記述、例えば先に触れた平家物語(剣の巻)などにそういった記録(読み物も同じ)として残される筈がありません。

呪いが「あって欲しい」と願う人達がいたのは、すなわち、社会における民衆や民意の象徴で、一方的な非業の死を遂げた人への弔い(とむらい)の意味もあって、いわば社会における一種の良心のようなものではなかったのか? と私は推測します。

恨まれている相手の過去に、よほど恨まれる非道な振る舞いとか惨殺行為、略奪行為があったとしたらどうでしょうか?

そういった行いを受けた側が亡くなった時、遺族や親族、仲間や友人達は「祟りがあって欲しい」と願いませんか? そういった行為を目撃した人や後から知らされた人は?

私はそこまで誰かに深く怨まれる行為を働いた人間がまず愚かだと思います。

例えばですが、呪いがなくても復讐を企む人は現れるでしょう。「報いを受けるべきだ」と考える人達が複数いれば実行に移す人も居たかもしれません。恨みや祟りで死んだとされる人が、実際には恨みから行動を起こした人に暗殺された可能性だって残るのです。

その幾つかが大衆の思いとなって、記録や印象に刻まれたのではないでしょうか?

社会にはあまりにも身勝手な人もいます。他人を傷つけて踏みつけにし、何の責任もとらずに自分はのうのうと暮らしている人もいる例もありますよ。

周囲(社会)がそれについて反感を持っていたり疎ましく思っていても、当のご本人は意に介しません。権力にすがり他人を利用し、誰かを騙す行為を当たり前のように繰り返していて「自分には(そうする)権利がある!」などと、勝手に思い込んでいる場合もあるのです。

そういったごう慢な人が不幸にあったり、天変地異や流行り病で次々と倒れたりすれば、「やっぱりあれは祟り(たたり)なんだ!」」とささやきあった、と思いますよ。

その当時は他に方法がなかった

どうしても仕返しがしたいとか、怨みが晴らしたいと願うのなら、誰にも止めることなどできません。

先に自爆テロなどにも触れましたが、死んでもいいと本人が思いそこまで腹を括って来られれば防御の方法がありませんよ。どんなに警戒を強めようと、死を武器に禍々しさ(まがまがしさ)をもって放つ命を止める方法などありません。

当時(特に平安時代)は呪いは法で正式に禁じられていました。

何らかの道具を購入した時点で相当の覚悟が必要です。当時の最高刑は死刑ですから。呪う、という行為そのものが違法ですし危険を伴うものでした。

発覚した時点で社会的な制裁を受け、地位や命を失う可能性があり、かかる費用もべらぼうに高額です。実現までには様々な困難が予測され普通なら諦める人が大多数でしょう。

それを諦めず、全てを賭けてそれに望んだ人がいる訳です。

そのあまりにも強烈な思い、峻烈にも思う心の痛み、一心な願望と痛ましい事実が、民衆や周囲の人達、下手をすればその酷い行為を行った本人にも「何か?」を呼び覚まし伝えたのではないか?と思います。

呪われる側が「よほど酷い行為を行っていた」との前提が必要ですが・・・。

そうでなければ周囲の同情は得られないでしょう。そしてその事実を公(おおやけ)にする必要が出て来ます。恥ずかしかったり苦しかった部分、辛かった部分を公開する必要があるのです。

それが「呪い」の発動の必須条件でしょう。

対象者の心の中のどこかに、やましさや悔悟の念がない限りそれを呼び覚ますことができないからです。周囲の同情や賛同、祟りがあっても仕方のないことだとの雰囲気も必要になってしまいます。

当時、呪いが反社会的行為として法律で厳しく禁止されていたのに行う人がいたのは、それ以外に自分の怨みを晴らす方法を持たなかったからでしょう。

呪いそのものが自分の持つ全てと引き換えにしてでもかなえたい願いであり、それまでの苦痛や悲しさ、悔しさや怒りそのものであったからではないでしょうか?

(それがいいかどうかはまた、別の話ですが)自分の生活を失うことを恐れ、自分の未来や将来を考えるのなら復讐とか仕返しなど止めておくことです。

生活や仕事、その後の人生の全てを賭け、そのためにどうしても怨みが晴らしたい、と願うのなら、どんな人でも止めることなどできないと思いますよ。

都合よく相手の人生、命や将来だけ「奪いたい」と望み、自分は安全な位置にいて「多くを失いたくない」と考えるのなら、到底目的はかなわないのでしょう。

それでも人はうなされる

私はこれまでに多くの人と会っています。

呪いがあるかどうかはわかりませんが、怨みを晴らすことはできます。実際に誰かを刺してしまったり、怨みを果たすために殺してしまった人もいます。

子供の頃から性的な虐待を受けてきた父親を家ごと焼き殺した人を知っています。自分を裏切った女、一方的に利用しようとした男を包丁で追いかけて刺した人を知っています。

そういった事実をどこかから突きつけられ、人間の心の深遠を覗き込んでしまえば、あなたはどうしますか?

知り合いや友人、自分の家族や恋人の何かを知ってしまっても、冷静でいられますか?

そういった復讐例の多くは相手から一方的にくわえられた虐待、いじめや折檻、詐欺、搾取への反発であり、復讐というよりもむしろ「防御」に近いものです。

被害者(刺した側)がやったことは正しくないんでしょうが、私としては同情を禁じえません。詳しい背景や事情を知れば、「なぜそこまで酷いことを、誰かが一方的に行う権利があるのだろう?」と疑問に思います。

私がこれまでお会いした人の中には、結果として人を刺し殺してしまった人もいます。罪に問われてしまい、償った人もいます。

真剣に復讐を考える人は覚えてください。

相手側により多くの罪がある。散々、嫌な思いをしてきて一方的な虐待をくわえられた、とします。

その相手を「殺してやろう、それが当然だ」と思うような酷い仕打ちを徹底して受けてきた、としましょう。復讐は当然で別に悪い事じゃない、と考えたとします。

それでも復讐のために殺してしまえば人はうなされるのです。

人を殺したことのあるヤクザをみました。普段は豪胆で腹が据わっており、悩みや痛みなど欠片も見せようとしない。抗争で何人かを殺しており、それについて「仕方なかったんだ」と言います。

懲役にも行っており、形式上、罪は償っている。組織の対抗上として仕方なかったともいえますし、下手をすればどちらが死んでいたのかもわからないでしょう。

それでもね、私はそういった人が夜中にうなされ、飛び起きるのを何度も見てきています。

そういったものを見たり知る都度に「人間というのはなんて不思議なものなんだろう?」と私は思います。

相手に罪があり明確な落ち度がある。相手に対抗するために行い、下手をすれば自分のほうが危なかったのかもしれない。だから「仕方ないんだ」「当然なんだ」と思っても、人を殺してしまうとどこかに良心の呵責(かしゃく)がある。

それが無意識の領域に残っているから、普段は豪胆でまったく気にしないようにみえる人が深夜に飛び起きる。殺した人が夢枕に立ったとか幽霊を見たと言い張る人もいましたよ?

人というのは本当に不思議なものですね。

あなたは人でいられますか?

命は尊いものでしょう。どんな理由にせよ、誰かが一概に奪っていいものではないと思います。

ですが、命が尊いものだとしたらその重さは同等でなければなりません。餓えや渇きに苦しみ、一方的な差別や加虐、虐待や蔑みがあるならそれを何らかの方法で跳ねのけようとする人も現れるでしょう。

自らの命を賭して・・・。呪いは当時、それくらいの価値があるものだったのです。

それを鼻で笑えますか? それは間違っていると諭したり、呪いなど何の効果などないと決めつけて相手を罵ることができますか? 少なくとも私にはできませんよ。

呪いが実際にあるかどうか、マイナスプラシーボ効果なるもので「人が殺せるかどうか?」など私にもわかりませんよ。

ただ、不遇のうちに殺されたり死んで、今になって神と崇められるようになった人達の中には、多くの人達の思い、亡くなった人への憧れとも同情とも尊敬ともつかぬ思いがあります。

亡くなれた方の思想とか行動、その生き方に大勢が共感したり魅せられるからだと考えます。

まあ、当のご本人達は死んでから神に祭り上げられるより、家族と平穏無事に暮らしたかったと思いますが・・・。

人はその強烈な思いで、自ら鬼にも魔にもなれます。場合によっては神や仏にさえなれるのかもしれません。

私はできることなら鬼でも魔でも神?でもなく、普通に人でいたいと望みますが、難しいのでしょうね・・・。人は強い感情から気がつけばそうなっており、自分でもどうしようもないのでしょう。

昔話でも、鬼や魔になってしまった人間の多くは、自分が元の姿を失っていることに気がつきません。

ある時、鏡や水面に映る自分の姿を見て、自分の変わってしまった姿に始めて気がつきます。その姿に驚いて「あさましや」と言って哭く(なく)のです。

私も気がつけば鬼として哭くのでしょうか?

呪いがあるかどうかは知りませんが、そういった話が実話、挿話として数多く書物や記録に残されてしまっていることに私は神ならぬ身、人として悲しい気持ちがして複雑な心境になります。

このコーナーの初稿は2002年に書かれています。年数が経過しましたので2017年のサーバー移転の際に、読みやすいようにレイアウトと一部に加筆修正を加えてあります

2002年01月25日 初稿

2017年12月08日 加筆、修正

谷口信行

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